2021年4月7日水曜日

ミューオン異常磁気能率と格子QCD計算

本稿を書いている時点で米国フェルミ国立加速器研究所 (Fermilab) のミューオン異常磁気能率 g-2 の実験結果はまだ出ていないので、もちろん私もその結果は知らない。以前ブルックヘブン国立研究所 (BNL) で行われた実験の結果が素粒子標準模型の予言からずれていたというので、もう10年以上もその再検証が待ち望まれてきた。さらに統計を増やして検証するには、より多くのミューオンを生成する必要がある。それには BNL の加速器では力不足だということで、より強力な陽子加速器がある Fermilab に実験装置全体を引越し、さらに改良した実験が行われた。Fermilab には、LHC が始まる前までは世界最強だった陽子加速器 Tevatron があり、そのための前段加速器も非常に強力だったため、これを再利用することになったわけだ。当初の予定では、この新しい実験の結果はすでに2年前(?)には出ているはずだった。だが、解析に慎重を期したせいか、その発表は何度も遅れ、ようやく今回発表されることになったので、業界では一つのセンセーションになっている。g-2 (ジー・マイナス・ツーと読む) は実験で測定される一つの数値なので、結果が出ればそれまで、と思われるかもしれないが、比べるべき理論計算のほうも一筋縄ではいかないので、より論議を呼んでいるという面もある。それがどういうことなのか少し紹介してみたい。

まず、g とは何か。電荷が円運動すると、その円をつらぬくような磁束が生まれる。だから円運動する電荷は、ある大きさの磁気モーメント(磁気能率)をもっているように見える。速く回転すれば磁気能率も大きくなるので、磁気能率を角運動量で割っておくと、電荷に比例するある定数になる。これを磁気回転比 g と呼ぶ。ある単位で1としておこう。一方、一つの電子やミューオンを見ると、それらは自転している(スピンをもっている)ので、それに応じて磁気能率ももっている。同じように比をとると、磁気回転比 g は1ではなく2になっている。これは電子が単に電荷をもったものが回転しているのではないことを示しているが、とにかくディラックの相対論的電子の運動方程式に従えば2になることがわかるので、これでよしとしよう。つまり、g-2 とは、電子やミューオンの磁気能率が予想された値 (=2) からどれだけずれているかをあらわす数になっている。同じものを表すために、a = (g-2)/2 という表記もよく用いられる。

ディラックの予言からのずれは、しかし異常ではない。量子電磁力学によれば、電子やミューオンが勝手に光子を放出し再吸収する過程から、そういうずれが生まれることが示せる。最初の補正は 1 に対して 0.001 なので、ごくわずかだ。実際、こうしたずれがあることは理論より先に実験で見つかっており、あとになって量子電磁力学がこの結果を再現することに成功したわけだ。電子が光子を放出して再吸収する仮想的な過程は、さらに深く押し進めることができる。例えば電子が光子を2個放出して再吸収する。あるいは、一度放出された光子がさらに電子と陽電子の対を産み出して、それがまた対消滅して光子に戻り、その光子が電子に吸収されるという過程もある。こういう複雑な過程は、どこまでも考えないといけないというわけではない。光子の放出、あるいは電子陽電子対の生成が1度起こるごとに磁気能率に対する寄与は 1/100 から 1/1000 小さくなるため、必要な精度を得るには途中まで計算しておけば十分だ。現実には、こういうのを5回繰り返した複雑な過程まで計算されており、これは人類のもつ理論によるもっとも精密な予言とされている。(この計算には木下東一郎らのグループが多大な貢献をしているのだが、それはまたいずれ。)

理論的計算はこれではっきりしているかというと、実は話はそれほど単純ではない。ミューオンから放出された光子は、次に電子陽電子対を(仮想的に)生成することができるが、同じようにクォーク・反クォーク対を生成することもできる。そうすると、そこから先は泥沼になる。クォークはグルーオン場を生成し、それは強い力の性質上、より複雑になろうが小さくはならない。量子色力学では、量子電磁力学と同じように計算するわけにはいかないのだ。こうした寄与はそもそも小さい(1に対して1千万分の1)なので、ほとんどどうでもよい話なのだが、今回の異常磁気能率の測定はそれよりもさらに1〜2桁精度がよいので、これを問題にせざるを得ない。そういうわけで、ミューオンの異常磁気能率の理論的予言は、実のところ量子色力学(QCD)をどうやって精密に計算するかという問題に帰着する。

これまで何度も強調してきたように、QCDの計算は難しい。特に低エネルギーでの現象は難しい。ミューオンの異常磁気能率もまさにそういう問題だ。これをどうにか精密に予言するために用いられた方法は、関連する別の過程に対する実験データを使うことだ。電子陽電子衝突を測定する加速器実験は、過去にあれこれ行われてきた。そこでは、電子と陽電子が仮想的な光子を作り、それがさらにクォーク・反クォーク対を生成するという、まさに同じ過程が起こっている。ただし、光子のもつエネルギーが異なるので、一方は仮想的な過程、もう一方は実際にクォーク・反クォークが実際に生成されて、それらがいくつかのハドロンを生成する。これらは本来別の量なのだが、量子力学的振幅の満たすべき数学的な性質(複素関数の解析性)のおかげで、実験データを集めて全エネルギー領域にわたって積分することで、ミューオン異常磁気能率の理論的予言に使うことができる。g-2 が標準模型からずれていた、と言うときの標準模型の予言はこうして得られたものだ。

実のところ、同じものは本来QCDにもとづく計算でも得られるはずだ。つまり、格子QCDシミュレーションを使って、ハドロン質量を計算するのと同じように、ミューオン異常磁気能率に必要な量を計算すべし。実際に、光子がクォーク・反クォークを生成する過程を計算すること自体は格子QCDでも簡単にできる。ただし、必要とされる精度は1%以下、と非常に厳しい。有限の格子間隔、格子の体積、その他の系統誤差を制御してこの精度を実現することはそれほど簡単ではない。それでも様々な工夫をによってこれに近い精度が得られるかもしれない、という段階にきたところだ。現状で、格子QCD計算によるミューオン異常磁気能率に対する結果は、過去に実験データを使って得られたものと合っていて、若干誤差が大きい。したがって、標準模型とのずれを議論する上では大きな影響はなかった。

ところが、昨年になって BMW (Budapest-Marseille-Wuppertal) コラボレーションという欧州のグループが、もっとよい精度の計算を実現した、という結果を発表した。そして、その結果はこれまでのものから有意にずれている。しかも、ミューオン異常磁気能率の理論予言値が既存の実験値と合う方向に。これが本当だったら、標準模型とずれている、というこれまでの騒ぎは空騒ぎだったことになる。ただし、実験値にもとづく評価とずれている原因や、他の格子計算の整合性、という点で疑問が出されており、本当にこれが最終的に認められる結果になるのかは現時点ではわからない。

こういう現状のなかで、Fermilab 実験でのミューオン異常磁気能率の結果が発表される。どちらに動くのか、それとも動かないのか。いずれにしても、その数値一つですべて疑問が解消されることにはならないだろう。間違いないのは、格子QCD計算のさらなる進歩が、今後の実験結果の意味に大きな影響をあたえるだろうということだ。