2021年5月22日土曜日

ミューオン g-2 の理論予言:実験データをインプットするか、理論計算か

そこに新物理はあるのか、ないのか。ミューオンg-2の実験結果と素粒子標準模型とのずれは本物だろうか。実験結果が動かないとすると、光子真空偏極の理論計算が信用できるかどうかにかかっている。従来の計算は純粋に計算ではなく、別のデータをインプットにして評価したものだ。一方で、最新の格子QCD計算は、基礎パラメタを決めるごく限られたインプットをもとに大規模シミュレーションで得られた。両者がずれているせいで、どちらを信用するかという話になってしまっている。正しくは、「格子QCD計算が実験値(光子真空偏極)を再現できない。なぜだろう」というべき話なのだが。

もう一度基本に返ってみよう。ミューオンg-2の摂動計算では、ミューオンが光子を放出して再吸収する過程を考慮する。 この光子はさらにクォーク・反クォークになって元に戻る過程が起こりうる。これを光子の真空偏極と呼ぶ。これらはすべて仮想的な過程だ。摂動計算のなかでは光子のもつエネルギーが現実に許されない領域にあるので、実際にクォークが出てくるわけではない。一方、これに似た過程で、実際にクォークが出てくるものがある。電子・陽電子衝突からのクォーク・反クォーク生成だ。電子・陽電子は対消滅して仮想光子をつくる。この光子がクォークと反クォークの対をつくり、(クォークは単独では存在できないので)パイ中間子などをつくって実験で測定される。最終的に出てくるすべての状態をカウントしておけば、これを光子の真空偏極(光子→クォーク・反クィーク対→光子)に焼き直すことができる。「すべての状態」というのがミソで、量子論の基本原理「起こりうることはすべて同時に起こる」にしたがって計算するにはあらゆる可能な状態を考慮する必要がある。ただし、あまりに大きなエネルギーの状態は相対的に効かなくなるので、数GeV程度の光子のエネルギーまでを考慮すればよい。実際にこれをやったのが、従来からある「理論計算」で、そこでは数多くの電子・陽電子衝突のデータを集めてきて注意深く組み合わせる。これは実のところ大変な作業で、長い時間をかけて進められてきた。KEKの萩原さんと野村さんらのグループは、この解析に先鞭をつけ、アップデートを続けてきた。実験データのほうも、さまざまな終状態のものをすべて測定する必要があるので、簡単な話ではない。多くの人の努力で得られた結果だ。

一方で、格子QCD計算のほうは一見単純な話だ。現実には許されないエネルギーをもつ光子のグリーン関数を計算すると、そこから対生成するクォーク・反クォーク、さらに付随して出てくるグルーオンなどの効果をすべて自動的に取り入れた計算ができる。あとは離散化による誤差を取り除くために格子間隔をゼロにする極限をとればできあがり。格子QCD計算は陽子・中性子やさまざまな中間子の質量などを精密に再現できることがわかっているので、光子真空偏極についても信じない理由はない。では何が問題なのか。

量子論とは驚くべきもので、あらゆる状態があらわれては消える、そのすべてを取り入れて初めて正しい答えが得られる。その中にはパイ中間子が2個の状態や3個、あるいは他の状態がすべて含まれる。格子QCD計算ではそれらを一つ一つ指定することはしないが、実際にはすべて入っているはずだ。なかでもミューオンg-2への寄与が大きいのはパイ中間子2個の状態なので、ここは注意深く見ておく必要がある。実のところ、これは格子QCD計算にとっては一つの大きなチャレンジであることがわかる。つまり、粒子を2個含む状態を扱うという問題だ。粒子が2つあると、両者の間には相互作用がおこる。単に粒子が2個あるだけではなく、それらの散乱を考えないといけない。散乱振幅は両者の相対運動量あるいはエネルギーによって決まる。これを正しく計算できれば、現実の物理過程としては電子・陽電子衝突でのパイ中間子2個の生成断面積が得られることになる。こういう計算ができるようになったのは比較的最近のことで、パイ中間子2個の共鳴状態としてあらわれるρ中間子のピークと幅を正しく計算できることもわかった。ただし、実験のほうでは単に共鳴の高さと幅だけでなく、より細かい構造が見えているのだが、格子QCD計算ではそこまでは得られていない。

ちょっと待った。電子・陽電子衝突でのパイ中間子2個の生成が格子QCD計算で再現できているとしたら、ミューオンg-2に出てくる光子真空偏極の主要部分については実験データと格子QCD計算が合っているということではないか。だとすれば食い違いの原因は何だろうか。パイ中間子3個の状態か、それとも他の何かか。

こう考えてくると、これからやるべきことが見えてくる。格子QCD計算をもっと分解してみて、一つずつ実験値と比較検証すればよい。ただし、格子QCD計算から個別の過程(パイ中間子2個だけとか3個とか)を取り出すのは容易ではない。代わりに、いろんなエネルギー領域に分けて個別に調べることが考えられる。これが、Muon g-2 Theory Initiative のやろうとしている次のステップだ。6月にKEK主催で開かれるワークショップでは、その詳細が議論されることになる。

2021年5月16日日曜日

ミューオン g-2 の理論予言:BMWの計算は正しいのか

先月発表されたミューオン異常磁気能率(g-2)の新しい実験結果(Fermilab)は、以前の結果(BNL)を追認する形になった。実験の詳細を理解するのは私には難しいが、セミナーを聞く限り以前よりもさまざまな系統誤差の要因を調べ上げており、全体として信頼性は格段に上がったと感じた。いまのところ誤差はBNLのものと大差ないが、まだ解析されていないデータもすでに取得しており、さらにデータが増える予定だということで、誤差は今後小さくなっていくことになるだろう。

驚きだったのは、BMW(ブダペスト・マルセイユ・ブッパータール)グループの格子QCD計算の結果が同じ日にネイチャーから発表されたことだ。光子の真空偏極効果はクォークを含むために通常の摂動的計算が使えない。従来は関係する実験データを使って評価していたが、BMWグループの格子QCD計算はそれとはずれていた。もしこの計算が正しければ、ミューオンg-2の実験値は標準模型による予言とそれほどずれていないことになり、新物理の効果!と人々が期待していたのは幻だったことになる。

「驚きだ」というのは、BMWグループの計算結果ではない。結果自体は1年以上前に arXiv に出ていたので、関係者はみな知っていた。今回 Nature がそれをわざわざ実験の発表日に合わせて出版し、話題をさらったのは見ていて気持ちのいいものではなかった。Fermilab 実験グループの人たちは、せっかくの発表なのに話題を半分横取りされた形になったわけだ。誰も口にはしないが、おもしろくなかっただろう。

ともあれ、今回の格子QCD計算の結果が重要な意味をもつことは確かだ。本当に正しいのか。正しいとしたら、従来の実験データを用いた解析とずれているのはなぜか。今後、検証が進むことになるだろう。私も格子QCD計算の専門家の一人なので、何人かの人から「BMWの結果は本当に正しいんですか?」と聞かれた。私も答えようがないのだが、一つ言えるのは、BMWグループは現時点でできる最善の仕事をしたということだ。ほんの数年前までは、1%以下の精度の格子QCD計算ができるとは思われていなかった。非常に大規模な計算と解析をやり切った実力は本物だ。このグループはこれまでも、ハドロン質量の計算などで大きな成果をあげてきた。間違いなく世界をリードする研究グループと言える。(素粒子理論の分野では例外的に、秘密主義を通すことでも知られる。つまり、やっていることを途中では明かさず、最後に結果を大々的に発表する。そのため、発表時に明かされた手法が他グループによって十分に検証されていない、ということが起こる。徐々に解消されることになるだろうが。)

ここで、BMWグループの計算にありうる問題点をあげておこう。ただし、そこが問題だから余分な系統誤差があると言うわけではない。論文を読む限り、できるだけのことをやって誤差を削減・評価しているように見える。それでも私には微妙なところがあるように思える、というだけの話で、詳細は今後の検証を待つ他ない。

格子QCD計算では、有限の格子間隔と格子体積で数値シミレーションを実行する。この計算は離散化による誤差と有限体積による誤差を含むので、最後に格子間隔をゼロに、格子体積を無限大にもっていく極限を取ってはじめて正しい答えが得られることになる。答えは数値で出てくるので、極限はデータを外挿することで得られるわけだが、それがどれだけ制御できているかが問題になる。2つの極限を同時に取るのは大変なことで、そのために異なる格子間隔と体積のデータを多数そろえる必要がある。(他にもインプットするクォーク質量を正しい値に内挿する必要があるので、現実にはもっと大変になる。)実は、このグループが採用した格子理論では、離散化誤差の問題と有限体積の問題が互いにからみあうというややこしいことが起こる。

これを説明し始めると格子理論の講義みたいになってしまうので、ポイントだけにしよう。彼らが採用した格子理論では、離散化誤差によって現実のパイ中間子に相当する質量の異なる粒子がいくつも(16個)出てきてしまう。格子間隔をゼロに取る極限では、これらのパイ中間子の質量はすべて同じになるので問題は解消するはずだが、現実の計算では10%くらいの無視できない大きさで質量のずれたパイ中間子が存在する。光子真空偏極には、これらのパイ中間子がそれぞれ効くので、1%以下の精度を達成するには大きな問題になる。実際、格子間隔を小さくしていくと計算結果は大きく動き、その極限が1%の精度で決まっているかというと微妙なところだ。問題を削減するために、彼らはいくつかの理論的な模型を使ってパイ中間子質量のずれに起因する誤差を補正した。やってみると、格子間隔に対する大きな依存性はほぼ解消し、連続極限はほぼ安定になるように見える。それはいいのだが、問題は「理論的な模型」をどれだけ信頼できるかだ。もっともらしい模型ではあっても、1%以下の精度で正しいかというと不安は残る。

パイ中間子はハドロンのなかでもっとも軽い粒子なので、有限体積効果の最大の原因になる。その質量が10%も変わると、有限体積効果もそれに応じて変わる。有限体積効果を調べるためには大きな格子体積でのシミュレーションをやってみるしかないが、それは比較的大きな格子間隔でしかできない。そうすると離散化誤差が大きくなり、パイ中間子質量のずれも大きくなる。(現実は厳しいのだ。)おかげで、有限体積効果による補正が格子間隔によることになる。これも格子間隔ゼロの極限を取れればよいのだが、計算コストが大きくなりすぎてできない。ではどうするか。彼らは比較的大きな格子間隔でもパイ中間子質量のずれが小さくなるような格子理論(論文中では 4HEX と呼んでいる)を作って、有限体積効果を調べるのに使った。これなら比較的格子間隔が小さいときの計算を模擬できるだろうという考えだ。そんなことができるなら、最初からぜんぶ 4HEX でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、実はこれは別のところで離散化誤差が大きくなることがわかっているので積極的には使いづらい。(どうもそういう事情は書かれていないようだ。)そういうわけで、有限体積効果を見積もるときだけ使う。ここも私には不安になるところの一つだ。この有限体積補正が3%程度あって無視できない。実際、実験データを使った解析とのずれも、ちょうどこれと同じくらいの大きさだ。

他にもいろんなチェックポイントはあるだろう。今後、いろんな側面からチェックが進むことになるだろうが、同じくらいの精度で計算するには大きな計算コストがかかる。BMWグループは、計算コストの「軽い」格子理論を使ったのでここまでできたのだが、おかげで上記のような問題が出てきてしまった。他のグループはそういう問題の出ない手法で計算を進めているが、数値精度の点でまだ及ばない。本当に解決するにはまだしばらくかかりそうだ。

2021年4月7日水曜日

ミューオン異常磁気能率と格子QCD計算

本稿を書いている時点で米国フェルミ国立加速器研究所 (Fermilab) のミューオン異常磁気能率 g-2 の実験結果はまだ出ていないので、もちろん私もその結果は知らない。以前ブルックヘブン国立研究所 (BNL) で行われた実験の結果が素粒子標準模型の予言からずれていたというので、もう10年以上もその再検証が待ち望まれてきた。さらに統計を増やして検証するには、より多くのミューオンを生成する必要がある。それには BNL の加速器では力不足だということで、より強力な陽子加速器がある Fermilab に実験装置全体を引越し、さらに改良した実験が行われた。Fermilab には、LHC が始まる前までは世界最強だった陽子加速器 Tevatron があり、そのための前段加速器も非常に強力だったため、これを再利用することになったわけだ。当初の予定では、この新しい実験の結果はすでに2年前(?)には出ているはずだった。だが、解析に慎重を期したせいか、その発表は何度も遅れ、ようやく今回発表されることになったので、業界では一つのセンセーションになっている。g-2 (ジー・マイナス・ツーと読む) は実験で測定される一つの数値なので、結果が出ればそれまで、と思われるかもしれないが、比べるべき理論計算のほうも一筋縄ではいかないので、より論議を呼んでいるという面もある。それがどういうことなのか少し紹介してみたい。

まず、g とは何か。電荷が円運動すると、その円をつらぬくような磁束が生まれる。だから円運動する電荷は、ある大きさの磁気モーメント(磁気能率)をもっているように見える。速く回転すれば磁気能率も大きくなるので、磁気能率を角運動量で割っておくと、電荷に比例するある定数になる。これを磁気回転比 g と呼ぶ。ある単位で1としておこう。一方、一つの電子やミューオンを見ると、それらは自転している(スピンをもっている)ので、それに応じて磁気能率ももっている。同じように比をとると、磁気回転比 g は1ではなく2になっている。これは電子が単に電荷をもったものが回転しているのではないことを示しているが、とにかくディラックの相対論的電子の運動方程式に従えば2になることがわかるので、これでよしとしよう。つまり、g-2 とは、電子やミューオンの磁気能率が予想された値 (=2) からどれだけずれているかをあらわす数になっている。同じものを表すために、a = (g-2)/2 という表記もよく用いられる。

ディラックの予言からのずれは、しかし異常ではない。量子電磁力学によれば、電子やミューオンが勝手に光子を放出し再吸収する過程から、そういうずれが生まれることが示せる。最初の補正は 1 に対して 0.001 なので、ごくわずかだ。実際、こうしたずれがあることは理論より先に実験で見つかっており、あとになって量子電磁力学がこの結果を再現することに成功したわけだ。電子が光子を放出して再吸収する仮想的な過程は、さらに深く押し進めることができる。例えば電子が光子を2個放出して再吸収する。あるいは、一度放出された光子がさらに電子と陽電子の対を産み出して、それがまた対消滅して光子に戻り、その光子が電子に吸収されるという過程もある。こういう複雑な過程は、どこまでも考えないといけないというわけではない。光子の放出、あるいは電子陽電子対の生成が1度起こるごとに磁気能率に対する寄与は 1/100 から 1/1000 小さくなるため、必要な精度を得るには途中まで計算しておけば十分だ。現実には、こういうのを5回繰り返した複雑な過程まで計算されており、これは人類のもつ理論によるもっとも精密な予言とされている。(この計算には木下東一郎らのグループが多大な貢献をしているのだが、それはまたいずれ。)

理論的計算はこれではっきりしているかというと、実は話はそれほど単純ではない。ミューオンから放出された光子は、次に電子陽電子対を(仮想的に)生成することができるが、同じようにクォーク・反クォーク対を生成することもできる。そうすると、そこから先は泥沼になる。クォークはグルーオン場を生成し、それは強い力の性質上、より複雑になろうが小さくはならない。量子色力学では、量子電磁力学と同じように計算するわけにはいかないのだ。こうした寄与はそもそも小さい(1に対して1千万分の1)なので、ほとんどどうでもよい話なのだが、今回の異常磁気能率の測定はそれよりもさらに1〜2桁精度がよいので、これを問題にせざるを得ない。そういうわけで、ミューオンの異常磁気能率の理論的予言は、実のところ量子色力学(QCD)をどうやって精密に計算するかという問題に帰着する。

これまで何度も強調してきたように、QCDの計算は難しい。特に低エネルギーでの現象は難しい。ミューオンの異常磁気能率もまさにそういう問題だ。これをどうにか精密に予言するために用いられた方法は、関連する別の過程に対する実験データを使うことだ。電子陽電子衝突を測定する加速器実験は、過去にあれこれ行われてきた。そこでは、電子と陽電子が仮想的な光子を作り、それがさらにクォーク・反クォーク対を生成するという、まさに同じ過程が起こっている。ただし、光子のもつエネルギーが異なるので、一方は仮想的な過程、もう一方は実際にクォーク・反クォークが実際に生成されて、それらがいくつかのハドロンを生成する。これらは本来別の量なのだが、量子力学的振幅の満たすべき数学的な性質(複素関数の解析性)のおかげで、実験データを集めて全エネルギー領域にわたって積分することで、ミューオン異常磁気能率の理論的予言に使うことができる。g-2 が標準模型からずれていた、と言うときの標準模型の予言はこうして得られたものだ。

実のところ、同じものは本来QCDにもとづく計算でも得られるはずだ。つまり、格子QCDシミュレーションを使って、ハドロン質量を計算するのと同じように、ミューオン異常磁気能率に必要な量を計算すべし。実際に、光子がクォーク・反クォークを生成する過程を計算すること自体は格子QCDでも簡単にできる。ただし、必要とされる精度は1%以下、と非常に厳しい。有限の格子間隔、格子の体積、その他の系統誤差を制御してこの精度を実現することはそれほど簡単ではない。それでも様々な工夫をによってこれに近い精度が得られるかもしれない、という段階にきたところだ。現状で、格子QCD計算によるミューオン異常磁気能率に対する結果は、過去に実験データを使って得られたものと合っていて、若干誤差が大きい。したがって、標準模型とのずれを議論する上では大きな影響はなかった。

ところが、昨年になって BMW (Budapest-Marseille-Wuppertal) コラボレーションという欧州のグループが、もっとよい精度の計算を実現した、という結果を発表した。そして、その結果はこれまでのものから有意にずれている。しかも、ミューオン異常磁気能率の理論予言値が既存の実験値と合う方向に。これが本当だったら、標準模型とずれている、というこれまでの騒ぎは空騒ぎだったことになる。ただし、実験値にもとづく評価とずれている原因や、他の格子計算の整合性、という点で疑問が出されており、本当にこれが最終的に認められる結果になるのかは現時点ではわからない。

こういう現状のなかで、Fermilab 実験でのミューオン異常磁気能率の結果が発表される。どちらに動くのか、それとも動かないのか。いずれにしても、その数値一つですべて疑問が解消されることにはならないだろう。間違いないのは、格子QCD計算のさらなる進歩が、今後の実験結果の意味に大きな影響をあたえるだろうということだ。

2021年3月19日金曜日

一念岩をも通す

このシリーズを書き始めたのは、アメリカの友人たちがついにK中間子崩壊での直接的CPの破れの格子QCD計算に成功させたのに、何というか少し感動したからだった。研究者というのは勝手なもので、たいてい自分の研究が一番だと思っていて、他の誰かの研究のことは何かとけなしたりするものだ。少し感心することはあっても、感動することはめったにない。私が感動、と言ったのは、単にこの研究が優れているためだけではない。この研究がもう30年以上にもわたる努力の結晶だったからだ。

格子QCDが理論として提案されたのは1970年代のこと、量子色力学(QCD)が出てきてまだ間もないころだった。結合定数を強くなる極限での計算ができたことで、クォークの閉じこめを説明できる可能性がでてきた。だがこのままでは現実世界の計算にはならない。本格的な計算にはシミュレーションが不可欠、ということで初期のシミュレーションが出てきたのが1980年代前半だった。すべてをまともに計算するには膨大な計算量が必要になるため、さまざまな近似をしてようやくそれらしい計算ができる。クォークは確かに閉じこめられるらしい。それが初期の成果だった。そうなると、もっといろんなものが計算できるのではないか夢をえがく。パイ中間子の質量とか陽子の質量とか、試しに計算してみるとそれらしい数字が出てくる。これはいい。1980年代の終わりころのことだ。

ブルックヘブン国立研究所やコロンビア大を中心とする研究者らが、 K中間子崩壊の本格的な計算をしてみたいと思ったのはこのころではなかったか。ブルックヘブンこそ、CP対称性の破れが実験で見つかった総本山みたいなところだ。エキサイティングな進展を目の当たりにしてきた理論家らがその計算をしてみたいと思ったのも無理はない。ところが、そこには乗り越えなければならない問題が山ほどあった。ここで改めて問題点をあげてみよう。そして、それらがどうやって克服されてきたのかも見ていくことにする。

  1. カイラル対称性が必要。カイラル対称性とは、フェルミオンの右巻きと左巻きを区別する対称性のこと。これが重要なのは、弱い力が左巻きにしか働かないようにできているためだ。理論計算の途中でもカイラル対称性をきちんと満たしておかないと、左巻きが勝手に右巻きに変わることがあって、本当は起こり得ない現象が起こったり、結果が何倍も間違ったりする。格子理論でカイラル対称性を保つのは非常にやっかいな理論的な問題で、アノマリーとも関係する。これを解決したのがドメインウォール・フェルミオンという理論の発明で、いまはやりのトポロジカル絶縁体のようなものだ。これが出てきたのが1990年代のこと。本格的にシミュレーションが行われるようになったのは2000年代からだ。ただし、ドメインウォール・フェルミオンでは、5次元空間の4次元表面を用いる。次元の一つ高い空間を扱うために、その分、計算量が数倍余計にかかることになる。
  2. 弱い力をあらわす法則を格子上で精密に表現すべし。弱い力は、Wボソンの交換を通じて起こる。Wボソンは非常に重いので、格子QCD計算でそのまま扱うことはできず、低エネルギーでの有効理論を使うことになる。量子論というのはやっかいなもので、勝手な理論を作るといろんな発散が出てきて手に負えない。発散が起こらないようにするには、有効理論を「正しい」理論と比較して同じ結果を与えるようにパラメタを調整しておかないといけない。こういうのを広い意味で「くりこみ」と呼ぶのだが、これを K中間子崩壊にかかわる有効理論について計算しておかないといけない。「正しい」理論としては摂動計算を使うが、摂動計算と格子計算の両方が使えるような基準量を考えるのがチャレンジとなる。これも2000年代を通じて大きな開発項目になった。
  3. 終状態はパイ中間子2個。これを扱うには、2個の粒子を有限体積に閉じこめたときに出てくる波動関数の位相差を見る必要がある。2粒子間の位相差をエネルギーの微妙な変化から読み取る理論的な枠組みがでてきたのは1990年ころ。数年後には、K中間子崩壊の計算につなげる枠組みも出てきた。ただし、やはり計算量が非常に大きくなるためにすぐには本格的な計算はできなかった。
  4. フェルミオンの対生成・対消滅を取り入れる。これがとても大変で、これをどうにかすべく、分野全体が2000年代をかけて悪戦苦闘した。何が大変かというと、フェルミオンの満たすべき性質であるパウリの排他律を満たそうとすると、ゲージ場の局所的な変化の影響が全空間に及んでしまうことだ。格子QCDシミュレーションでは、モンテカルロ法にしたがってゲージ場のサンプルを生成するが、そのサンプルをごくわずか更新しただけでも格子体積全体の影響を調べて反映させる必要がある。これが大変な計算量になるため、現実的な計算を実現するには様々な改善が必要だった。特に軽いクォークは空間的に遠くまで容易に影響するため大変な計算になる。この問題は、短距離、中距離、遠距離の影響を別々に扱うことで全体で効率的な計算が可能になった。
  5. 速い計算機を作る。膨大な計算が必要なら、そのための計算機を作ってしまえばよい。買ってきた計算機よりも何倍も速いものができるなら、やってみる価値がある。これは単純なアイデアで可能になる。4次元空間をあらわす格子をサイコロ状に切り、それぞれを別の計算機に計算させる。隣の情報が必要になったときにはデータを通信してやりとりすればよい。先進的な並列計算機は格子QCD計算から生まれた。筑波大のPACSシリーズもその一つだ。アメリカではコロンビア大のQCDOCが有名で、その後のIBM BlueGeneシリーズにつながった。1990年代には QCD に起源をもつマシンがスパコンの世界をリードし、こうした並列計算機が普通になって現在の富岳にまでつながっている。
  6. いよいよ現実に。2010年代になって、格子QCD計算は現実に近づいてきた。クォークを軽くするのが大変だったが、アルゴリズムの改善と計算機の高速化で克服された。現実のアップクォーク、ダウンクォークのシミュレーションが可能になり、さらには格子間隔を数点とって連続極限を評価することもできるようになった。例えば陽子・中性子の質量は実験値を精密に再現できる。K中間子でいえば、そのレプトン対への崩壊や、パイ中間子1つとレプトン対への崩壊でも精密な計算が可能になった。
こうしたあらゆる面での理論的な発見と改善が分野をあげて続けられたが、その間もコロンビア大などのグループは一貫してK中間子崩壊の問題に取り組んできた。もちろん、これらの改善をすべて取り入れながら。30年たてば若かった人も30だけ歳をとる。その間、情熱を失わず邁進してきたのは尊敬すべきことではないか。

2021年3月14日日曜日

50年以上もわからなかったこと

素粒子にはこれこれの種類があって、相互作用はこれとこれ、まだわからない謎はこれ。素粒子物理は、素粒子の標準模型という形に整理されて基礎方程式もわかっているので、学ぶ側としてはわかりやすい。とは言え、そこに至る前にはさまざまな混乱があった。なかでも強い力にかかわる現象は混沌としていて、良く言えば多様な、悪く言えば場当たり的な理論があれこれ作られた。今にして思えば、複雑な内部構造をもつ粒子がぶつかったり壊れたりするのを扱っていたので、難しいのは無理もない。結局、素粒子物理はこの難しい強い力の問題を飛び越えて高エネルギーに進むことで、より小さなスケールでの法則を理解するという目標に到達することができたわけだが、実はその途中で見つかった難しい問題の多くは放置されてそのままになっている。K中間子の崩壊に関する ΔI = 1/2 則もその一つだ。 

「ΔI = 1/2 則」。何のことだろう。まず I (アイ)は前回も出てきたアイソスピンを意味する。Δ(デルタ)は差のことなので、これは反応の前後でアイソスピンが 1/2 だけ変化する過程に関する法則のことだ。K中間子がパイ中間子2個に崩壊するとき、パイ中間子2個の状態にはアイソスピンが2のものと0のものがあるというのを前回紹介した。一方で、K中間子にはダウンクォークが一つ入っていてアップクォークはないので、K中間子のアイソスピンは 1/2 になる。つまり、この過程では、アイソスピンが 3/2 (パイ中間子2個のアイソスピンが2の場合)、あるいは 1/2 (パイ中間子2個のアイソスピンが0の場合)だけ変化する振幅が存在することになる。ΔI = 1/2 則が言っているのは、アイソスピンが 1/2 だけ変化する過程の振幅が、もう一方よりずっと大きい、ということだ。何かの法則みたいな名前だが、何のことはない、実験で測られた結果を見るとそうなっている。もはや大昔、1950年代に発見されたことだが、具体的には、ΔI = 1/2 の振幅が、ΔI = 3/2 よりも22倍程度大きい。崩壊確率はこれを2乗するので、500倍近くの違いがあることになる。これはなぜだろうか。

量子色力学(QCD)が発見される前には、この現象を理解するすべは何一つなかった。QCD が確立したあとでも、この崩壊を計算することは容易ではなく、かなりおおざっぱな近似を用いた計算では、2倍の違いなら説明できそうだったが、22倍とはまだかなりの開きがある。そういうわけで、この問題はやはり難しいままで残されてきた。最終的な理解のためには、QCDの本当の計算を可能にする格子QCDシミュレーションに頼るほかない。

ところが、格子QCD計算を用いたとしても、これは容易な話ではない。まず終状態がパイ中間子2個の状態であり、それらの再散乱も含めた計算をしないといけない。それぞれのパイ中間子が特定の運動量をもった状態を抜き出さないといけない。このシリーズで以前に解説したが、それぞれ難しい問題だ。そして、ΔI = 1/2 、つまりパイ中間子2個がアイソスピン0をもつ状態がもう一つの大きなチャレンジとなる。アイソスピンが0ということは、全体としてはアップクォークもダウンクォークも存在しないということを意味する。最終的にはパイ中間子が2個出てくるのだが、そこに至る途中では、クォークと反クォークがすべて対消滅してグルーオンの背景場だけが残ったような状態を経由することもある。これも脱線中に紹介した η’(エータ・プライム)中間子の計算が難しいのと同じで、こういう状態を計算しようとすると計算の統計ノイズが大きくなってしまって、まともな結果が得られない。こういう困難を一つ一つ解決する必要があるのだ。

2021年3月13日土曜日

道は一つではない

自転車通勤をしていると、毎日同じ道だと飽きてくる。せっかくの田舎道を楽しむために、少し遠回りになってもいろんな道を通ってみたい。それぞれに違う季節の便りを感じることもできる。今週の発見は、今年初めてのウグイスの鳴き声だった。道を選ぶ決め手は、信号のタイミング。長めの信号待ちは職場までに3ヶ所ある。ぎりぎりで赤信号に変わったときは、別の経路を選ぶチャンスということで、遠回りすることにしている。家を出るときには、どちらを通るかわからない重ね合わせの状態にあるわけで、量子力学の波動関数の気持ちを毎日体感することができる、気がする。

これまでだいぶ脱線してしまった。脱線は楽しいのだが、脱線したまま数ヶ月がたつと、もともと何の話をしようとしていたのかわからなくなってくる。もともとK中間子崩壊における直接的CP対称性の破れの大きさを、格子QCD計算でどうやって計算したのかを解説しようとして始めたんだった。それがいつのまにか量子色力学やら、その量子化手段としての経路積分、インスタントン、果てはアノマリーまで出てきて収拾がつかなくなってしまった。それぞれに理由があって登場させたのだが、読んでくださっている方には何のことかわからなかっただろう。そろそろ元に戻るときだ。

CP対称性の破れというのは、粒子と反粒子を入れかえたときに、法則がまったく同じにはならないということを意味する。もちろん電荷が逆になったりする違いはあるのだが、そういう当たり前の違いを除いても、粒子の崩壊確率などに違いがある。それが最初に見つかったのはK中間子の崩壊においてだった。中性K中間子は、パイ中間子2個もしくは3個に壊れる。パイ中間子2個の状態のCPはプラス、3個の状態はマイナスなので、それぞれに応じて中性K中間子にもCPプラスの状態(Kショートと呼ばれる)とCPマイナスの状態(Kロング)の2種類がある。最初に見つかったのは、CPマイナスのはずだったKロングが、CPプラスの状態であるパイ中間子2個に壊れる事象だった。この現象は、中性K中間子が、そのままパイ中間子2個に壊れる波動関数と、一度K中間子の反粒子に遷移してからパイ中間子2個に壊れる波動関数の重ね合わせ、つまり干渉によって起こる。CP対称性の破れは、常にこうした干渉効果を通じて起こる量子的現象だ。

だが今回の主役になるのはこれではない。中性K中間子がパイ中間子2個に壊れるところまでは同じだが、もう少し詳細を見ることになる。パイ中間子2個のペアで全体の電荷がゼロになるものには、荷電パイ中間子のプラスとマイナスのペア、それにもう一つ、中性パイ中間子2個のペア、という2つの可能性がある。これらは、いずれもアイソスピンの言葉では、アイソスピンが2の状態と0の状態の重ね合わせになっている。アイソスピンというのはアップ・クォークとダウン・クォークを区別する量子数のこと(以前のアイソスピンの項を参照)で、1個のパイ中間子(荷電パイ中間子のプラスとマイナス、あるいは中性パイ中間子)は、アイソスピン1をもつ3つの状態のうちの1つになっている。パイ中間子が2個になると、アイソスピン1の状態を二つ組み合わせることで、アイソスピン2と0があらわれる。(量子力学を勉強すると後半に出てくる角運動量の合成というやつだ。面倒だけど、結局勉強しないといけなくなる。) 現実の状態はこのいずれかにきちんと対応しているわけではなく、アイソスピン2と0の状態をあるやり方で重ね合わせたものに相当する。

ややこしい話になってきた。中性パイ中間子2個の状態が実験で観測されたとき、それは実はアイソスピン2の状態だったかもしれないし、あるいはアイソスピン0の状態だったかもしれない。量子論の重ね合わせなので、どちらかを言うことはできないわけだ。これらの2つの波動関数の重ね合わせを通じて干渉が起こりうる。そして、その干渉を通じてCP対称性の破れが起こる可能性がある。実験によって、このCP対称性の破れを取り出すには、巧妙に考え出されたいろんな崩壊過程の比を使うのだが、それはここではいいことにしよう。とにかく、2つの崩壊過程をあらわす波動関数(量子論的な振幅とも呼ばれる)の干渉を通じてCP対称性が破れる。これを直接的CPの破れという。

この直接的CPの破れが実験で確認されたのが90年代の前半。すでに25年以上が経つ。ところが、理論的な計算があまりに難しいために長い間棚ざらしの状態になっていた。最近の格子QCD計算は、ついにこの計算ができるようになったという大きなエポックとなった。


2021年2月23日火曜日

アノマリーとトポロジー、そして真空

アティア・シンガーの指数定理というのは、ゲージ場がもつ空間の巻きつき数(トポロジー)と、それを背景として存在するフェルミオンのゼロエネルギー波動関数の個数に関係がつくという奇想天外な数学的定理で、どうしてそんなことを思いついたのか見当もつかない。実際、数学の解説書をパラパラ眺めてみても、奇怪な言葉が並んでいるばかりでとても理解できそうもないので早々に退散した。物理学のほうで学ぶ場の量子論の教科書にもこの定理のことは必ず出てくるが、その証明やら導出やらが書かれたものにお目にかかったことがない。そこで、とりあえず結果だけを知ってわかったことにする。きっとこのあたりが平均的な物理学者の姿ではないだろうか。私の場合は、量子色力学のシミュレーションでこの定理の帰結を何度も確認してその度に感嘆したりしているので、平均より一歩進んでいると言えなくもない。全然自慢になってないが。

ゲージ場の量子論にはアノマリー(量子異常)という不思議な性質があって、普段は変わらないはずのフェルミオンの回転の向き(カイラリティとも呼ばれる)が、特殊な背景ゲージ場をもってくると変わりうるという話をした。前回のことだ。この「特殊な」というのがミソで、これがトポロジーと関係している。量子色力学では「空間に巻きつく」ようなグルーオン場が存在していて、それがパイ中間子が軽くなる仕組みと関係している、という話があったのを覚えておられるだろうか。実はこのときの「巻きついた」背景グルーオン場、これこそがアノマリーが関係する「特殊な」背景場に他ならない。こういうのをインスタントンと呼んでいて、ある大きさをもつボールのようなものだと想像してもらえればいいだろう。インスタントンは空間への巻きつき回数に応じて ±1, ±2 などと数えることができる。そういうのが量子論の原理に応じて空間中で生まれたり消えたりを繰り返している。

インスタントンが背景にいるとき、そこを走り抜けるクォークは回転の向きを変える。右巻きのクォークが左巻きに変わったりするわけだ。より正確に言うと、インスタントン背景場のもとでは、右巻きクォークが取りうる波動関数と左巻きの取りうる波動関数の数が一致しなくなる。右巻きと左巻きの数の差は、ちょうどインスタントンの巻きつき数と等しくなる。これがアティア・シンガーの指数定理だ。なぜそうなるのか、最初に白状したように、私は結局導出を理解できなかったのでここでその本質を語ることはできない。ただ、具体的な関数形を与えて計算してみることはできる。数学的な定理のえらいところは、こういう具体形を与えなくても「必ず」成り立つことを保証してくれることで、インスタントンがさらに量子ゆらぎが加わってめちゃくちゃになったようなグルーオン場であっても定理はそのまま成り立つ。だから絶対に正しいと安心していられるわけだ。

空間のあちこちで生まれては消えるインスタントン。それがあるたびにクォークは回転の向きを変える。これこそが、クォークが実質的に質量をもつことになる仕組みであり、同時にパイ中間子が逆に軽くなることの理由でもある。魔法のようなこの性質が、質量生成の仕組みの背後に隠れている。その中心にあるのがアノマリーと指数定理。高度に発達した数学によって自然界の、いや真空の仕組みが理解される。驚くべきことではないだろうか。

トポロジーといえば、トポロジカル絶縁体、あるいはトポロジカル物質、というのが物性方面では一つの流行になっていると聞く。全体としては絶縁体だが、その表面だけに金属のように電気を流すような電子状態が存在する。トポロジーと呼んでいるのは、3次元のかたまりの表面とか、2次元面のふちがつくる形に対応した状態ができるせいで、確かに連続変形によって変わらないというトポロジーの性質をもっている。ただ、私には量子色力学のもつ奥深さには到底及ばない気がする。まあ身びいきというものであろう。

2021年2月20日土曜日

アノマリーと右巻き・左巻き

もう少しアノマリー(量子異常)について考えてみたい。

量子電磁力学(QED)には、電荷の保存という際立った性質がある。電子がもつ電荷は、電子が飛んでいる間に増えたり減ったりしない。唯一の例外は、反粒子(つまり陽電子)と出会ったときで、電子と陽電子は対消滅して消えてしまう。これとて、電子の電荷を−Q、陽電子の電荷を+Qと呼ぶことにしておけば、両者を足したもの −Q +Q = 0 は変わらないので、電荷の保存はやはり成り立っている。何をあたりまえのことを、と思われるだろうか。ちょっと違う量を考えるとあたりまえでなくなる。右巻きの電子の数から左巻きの電子の数を引いた数を考えてみよう。電子の走る進行方向に対して、電子の自転(スピンともいう)がどちら向きかを考えると右巻きと左巻きに分けることができるので、その差はどうなるかという問題になる。ちなみに和のほうは電子の数なので、電荷と同じで保存する。さて、右巻きと左巻きの数の差だが、これは電子が質量をもっていると保存しない。質量とは右巻きを左巻きに、左巻きを右巻きに入れ替える効果のことなので、これは仕方ない。では、質量ゼロの電子を考えてみよう。右巻きと左巻きの差は保存するだろうか。

そもそも電磁相互作用には、電子の自転の向きを変えないという性質がある。電子がクーロン相互作用で他の電荷から力を受けても、右巻きは右巻きのまま、左巻きは左巻きのままにとどまる。そういう意味で、右巻きと左巻きの差はやはり保存する。ちょうど電荷の保存と同じことで、もし電子の質量がゼロなら右巻きと左巻きはあたかも別々の粒子であるかのように、それぞれの数が保存することになる。ただし、アノマリーさえなければ。

ここに前回紹介したアノマリーが登場する。電子を、ある特別な電場と磁場のなかに置いてやると、アノマリーのおかげで右巻きが左巻きに移ることがある。これは量子効果であって、通常の電磁気学(マックスウェル方程式)のままでは起こらない。量子化したときに発散を取り除く操作をしたときに出てくるのがアノマリーだが、それが電子の回転する向きを変えることになる。これは角運動量を変えることになるので、背景の電磁場がその角運動量を供給してくれないといけない。こういうことが起こるのは電場と磁場が並行にそろったような特別な場合なのだが、それは細かい話だろう。覚えておくべきことは、アノマリーは右巻きと左巻きを混ぜるということだ。

ここで、「あれ? 右と左を混ぜるということは、質量を与える効果と同じじゃない?」と思った読者は非常に鋭い。QED の真空には背景電磁場は何もないので、アノマリーを通じて真空中で何かが起こるわけではない。一方、クォークが関係する量子色力学(QCD)では話が違ってくる。以前にも紹介したように、真空中はQCDのゲージ場(グルーオン場)で沸きたっている。グルーオン場は、電磁気学での電磁場に相当するものなので、要は真空中に電磁場みたいなものがいっぱい沸きたっているということになる。その中にはアノマリーに効くような特殊なものもあるので、ちょうどそういうグルーオン場に遭遇したクォークは、右巻きから左巻きに、あるいは左巻きから右巻きに変わることができる。これは、クォークに質量が生まれたのと同じことだ。つまり、クォークはアノマリーを通じて質量を獲得できる。そして、この「特殊な」グルーオン場というのが、実は以前にも紹介した「インスタントン」というやつだ。

クォークが質量をもつことと、η’粒子が大きな質量をもつことは、似ているようで異なる。 一方は、クォークの右巻きと左向きが入れ替わる話なのに対して、もう一方は、クォークが反クォークとペアになって消えてしまい、グルーオン場だけが残ったような何かだからだ。いずれにしてもQCDのゲージ場の存在、しかもインスタントンという特殊なグルーオン場が鍵を握ることになる。

2021年2月6日土曜日

アノマリーの異常な世界

アノマリー(=異常)という名前がよくないんだと思う。場の量子論を最初に学んだときには、それがどれだけ重要なのかピンときていなかった。なんかうまくいかないことでもあるんだろうな、まあ後でもいいか、そんな感じで素通りしてしまった。ほんとうは場の量子論のもっとも奥深い部分だと言ってもいいのかもしれない。いまもアノマリーに関係する、あるいはアノマリーを使う理論研究が次々と出てくる。正直に言うと、私は全然ついていけていないし、いまでもアノマリーの本当の意味をわかっていないんだと思う。とは言え、ここを避けて通るわけにもいかない。説明を試みてみよう。(アノマリーにもいろいろあるが、ここではいわゆる軸性アノマリーのことを指す。)

η’(エータ・プライム)中間子がパイ中間子よりもずいぶん重い、その理由には量子異常が深くかかわっている。量子異常とは、理論がもともと持っている対称性が「量子化」によって壊れてしまうこと。対称性とは、いまの場合、右巻きのクォークと左巻きのクォークを、それぞれ逆向きに位相回転する変換によるものを考える。クォークの質量というのは、右巻きと左巻きを混ぜる度合いのことを言うので、もしクォークの質量がゼロならクォーク場が満たすべき方程式は、この位相回転をおこなっても形が変わらない。この対称性が自発的に破れるかどうかが、クォークが勝手に質量をもつようになるかどうか、そしてさらにパイ中間子やエータ・プライム中間子が軽くなるかどうかを決めることになる。

「クォーク場が満たすべき方程式」と言った。ただし、量子論では方程式がすべてではない。量子化とはゆらぎを取り入れること。クォーク場も方程式にしたがって動くだけでなく、いろんな揺らぎを含むありとあらゆる可能性をすべて波動関数のなかに取り入れることになる。ここに発散という新たな問題があらわれる。場のゆらぎを波の波長で表現することにしよう。波長の長いゆらぎから、波長の短いものまでいろんなゆらぎを取り入れることになるが、空間には「最小の単位」というものはないので、ゆらぎの波長にも最小のものはなく、どこまでも短い波長のゆらぎが加わることになる。これをすべて加えていくと発散してしまうので、どうにかするために「くりこみ」が登場する。雑な言い方をすると、波長の短いゆらぎを足すのをどこかでやめるということだ。空間に最小の単位を設定してそれより短い波長の波は考えず、その範囲内で何とかする。そういう話だ。ところが、ここで問題が起こる。量子化によるゆらぎを取り入れつつ右巻きと左巻きのクォークに逆の位相回転を加えると、余計なものが生まれてしまうのだ。

余計なものとは何だろうか。ここから話がややこしくなる。ある波長より短い量子ゆらぎを取り入れるのをやめると言った。これを右巻きと左巻きのそれぞれについて、同じように適用する。自然界に右と左の区別はないので、ゆらぎを取り入れるモード(異なる波長をもつ波)の数は右も左も同じになるはずだ。ここに問題がある。もしこのクォーク場の背景に電場と磁場が加わっていたとしよう。磁場があると右回りと左回りの電流が異なるふるまいをすることからもわかるとおり、磁場がある空間には右と左の区別が生じる。このとき、クォークの右巻きモードと左巻きモードは、異なるエネルギーをもつことになる。別の言い方をすると、ゆらぎを取り入れる波長の限界を元と同じにしておくと、存在するモード数が右巻きと左巻きで異なってくる。おかげで、もともとあると思っていた右と左の間の対称性が壊れてしまうことになる。それをあらわす部分をもともとあった方程式に付け加えないといけない。これがアノマリーだ。

ごく短距離での量子化の切り捨て方の違いなんて大したことではないと思われるかもしれない。ところが、これには現実的な意味がある。中性パイ中間子はほとんどが光子2個に崩壊するが、この崩壊はアノマリーがあるからこそ起こる。ごく短距離での理論の変形が、低エネルギー(あるいは長距離)での物理現象に実際に寄与する。これがアノマリーの不思議なところだ。

電場と磁場があるとき、と言ったが、これと同じことは量子色力学のグルーオンがつくる色電場、色磁場に置き換えても成り立つ。η’中間子は、光子2個に壊れるのではなくグルーオンの色電場・色磁場に化けることで質量をもつ。そういうストーリーだ。


2021年1月24日日曜日

U(1)問題の何が問題か?

だいぶ間があいてしまった。フレーバー1重項の話を始めてしまったのに U(1) 問題が出てこないのも変なのだが、ここで説明するのは相当やっかいな気がして思い切りがつかなかったせいだ。うまく説明できるか自信がないということは、自分の理解が中途半端なせいだろう。とは言え、始めてしまったことでもあるし、少し試みてみたい。

パイ中間子は、ほかのハドロンにくらべてずっと軽い。これは南部陽一郎の考えた「自発的対称性の破れ」によって説明される。アップとダウンという2つ(ストレンジも入れると3つ)の種類があるクォークを入れ替えても理論が変わらないという対称性(アイソスピンという。以前の記事を参照)があるのだが、真空がその一部を壊してしまうときに質量をもたない粒子が出てくる。それがパイ中間子というわけだ。この話はいろんなところで解説されている。クォークにいったい何が起こってパイ中間子が軽くなるのかは、もっと難しい話になるのだが、以前に説明してみたのでそちらを見てほしい。問題は、これだとパイ中間子だけではなく、η(エータ)中間子も軽くなってしまうことにある。(ストレンジ・クォークも加えて3つのクォークの対称性に拡張した場合はη’(エータ・プライム)中間子に相当する。)パイ中間子はアップ・クォークと反ダウン・クォークのように種類のちがうクォークでできているのに対して、エータ中間子はアップ・クォークと反アップ・クォーク、ダウン・クォークと反ダウン・クォークという同じ種類のクォーク・反クォーク対でできていて、しかもそれらが均等に混ざっている。このようにクォークの種類を入れ替えないときの対称性を「U(1)」と呼んでいる。真空がこのU(1)対称性を破るのにエータ中間子が軽くならないのはおかしいではないか、南部の理論と矛盾するではないか。この問題を称して「U(1)問題」という。

ところが、ほどなくこれは問題ではないということがわかった。なぜなら、あると思っていたU(1)対称性は、量子色力学のもつ量子異常という性質のおかげで実はそもそも壊れていることがわかったからだ。もともと壊れている対称性なら自発的に破れようもないので、南部の理論に抵触することもない。量子異常は、もともとの理論がもっているはずの対称性が量子化したときに壊れるという性質で、これ自体が奇妙なことだが、そういうものなので仕方がない。とにかく対称性は最初からなかった。だから、U(1)問題はそもそも問題ではない。

だったら話はそれで終わりではないか。それはそうなのだが、研究者というのは執念深い。おもしろそうな問題には誰もが惹かれ、深く考えてみたくなる。この問題がおもしろいのは、それが量子異常とつながっているからだ。そして量子異常はゲージ場のトポロジーと関係している。ゲージ場のトポロジーを担っているのはインスタントンというやつだ。だから、エータ中間子が重くなる背後にはインスタントンが関わっているに違いない。でもどんなふうに? ここはもう一度仕切り直しして考えてみよう。

2021年1月11日月曜日

この中にクォークは... 、あるのかないのか

長い間使っていなかったのりが、口のところで固まって出てこなくなった。仕方ないので口のところを回して外すと、 のりが固まりになってごろっと出てくる。のりは紙と紙を貼りつけるものだが、ほっておくと自分で固まってしまうこともある。何の話かと思われるだろうか。かなりこじつけ的だが、今日はグルーボールの話をしてみたい。

量子色力学でクォークを結びつける「のり」の役割をしている場(あるいは粒子)のことをグルーオンと呼ぶ。グルーとは「のり」のことなので、「のり粒子」。あたりまえすぎる名前だと思われるだろうか。英語のこういう気楽さは楽しい。このグルーオンは、クォークをくっつけるだけでなく、グルーオン同士でくっつきあって固まりをつくることもでき、こういうのは「グルーボール」と呼ばれる。日本語では「のり玉」ということになるだろうか。グルーオンは電磁気学の光子、すなわち光あるいは電磁場、に対応する粒子なので、光と光がくっついて毛玉を作ったようなもので奇妙な感じがする。実際、電磁気学ではこういうことは起こらない。量子色力学では、のりの働きをするグルーオンがそれ自身「色荷」をもっている、つまり他を引きつけるためにこんなものも可能になるわけだ。

強い力でできた束縛状態は、クォーク模型といって、クォーク同士が引きつけあってくっついていると考えればおおよそ理解できるが、グルーボールは明らかにその範疇を超えている。なにしろその中にクォークはいないのだ。だから、グルーボールが見つかれば、量子色力学の強い証拠がまた一つ加わることになる。だが、残念なことにこの粒子は実験では見つかっていない。なぜか。それはこの粒子がかなり重いと予想されるためだ。

グルーボールができるとどうなるか。あらゆる粒子は、もしそれよりも軽い粒子に遷移できるなら、いつか壊れてしまう。質量差が大きいほどすぐに壊れ、逆に質量差が小さいとなかなか壊れない。グルーボールの場合は、それよりも何倍も軽いパイ中間子2個あるいは数個に壊れることができるので、できたと思う間もなく壊れてしまうはずだ。ある程度の時間生き延びてくれれば共鳴といって、その質量にぴったり合うエネルギーを与えたときだけ反応が起こりやすくなるのでそれとわかるのだが、壊れるのがあまりに速いと、それすらなく、痕跡を残してくれないので見つけられない。だから、存在するのかどうかすらあいまいになる。

内部にクォークをもっていないはずのグルーボールが、クォークと反クォークで作られたパイ中間子に壊れるのはおかしな話だと思われただろうか。ここもまた量子論のマジックで、グルーボールの中ではクォークと反クォークがペアになって勝手に生まれたり消えたりを繰り返している。ペアになるのは同じ種類(アップならアップ、ダウンならダウン)のクォークと反クォークなので、それをいくら繰り返しても全体のアイソスピンはゼロのまま(アイソスピンが何かは、少し前の記事を参照)。つまり全体としてはアップ・クォークもダウン・クォークも存在しない状態だが、実際にはいっぱいいるというややこしいことになっている。こうして生まれたり消えたりしているクォークと反クォークが、たまたま別の相手とくっついて外に出てくると、それが2個のパイ中間子、というわけだ。

以前に出てきたη’(エータ・プライム)粒子は、パイ中間子に似た粒子で、ただしアイソスピンがゼロのものだ。そういう意味では似ているが、パリティ(空間反転対称性)がグルーオン2個でできるものとは逆なのでグルーボールとは呼ばれない。

格子QCD計算でグルーボールの質量を計算した例はいくつかあるが、実はそれらはパイ中間子に崩壊することを考慮した計算ではない。むしろこの世にクォークがないことを仮定したときの計算なので、現実的なものとはいえない。パイ中間子2個に崩壊することを考えると、計算はとたんに難しくなる。前にも説明したように、格子計算でうまく計算できるのはエネルギー最低状態だけなので、グルーボールの質量を計算しようとしたのにパイ中間子2個のエネルギーを計算するだけになってしまうせいだ。しかもこの計算では統計誤差がやたら大きくなってしまうので、パイ中間子2個の状態を同定することすら難しいだろう。そういうわけで、おそらく将来も本当の計算ができるようにはならないと思われる。

グルーボールは、実験的に発見するのは困難(一応それっぽいものは見つかっているのだが確証のしようがない)で計算も難しいとなると、手の施しようがないということかもしれない。その中にクォークがあるのか、それともないのか。理論的には「ある」。量子論では「起こりうることはすべて起こる」からだ。しかし、実験で検証できない以上、設問自体に意味がないということか。

2021年1月3日日曜日

量子コンピュータはどこがすごい(かもしれない)のか

それを計算機だと思うから、間違えると腹が立つ。実験装置だと思えば、エラーがあるのはあたりまえ。誤差つきで得られた結果から意味のある結論を導くのが実験家の腕の見せどころだ。量子コンピュータもそういうものだと思えばいいのかもしれない。ただし、誤差の要因を含めて装置全体を理解するのは、量子計算を理解するよりもはるかに難しそうではある。

とは言え、そこにおもしろそうな装置があるなら触ってみたくなるのは人情で、だからこそ多くの人が量子コンピュータの使い方について考えている。ここで考えたいのは、格子上に定義された場の量子論だ。ここに量子コンピュータを使うと何がすごいのか。量子の魔法を使って、既存のスーパーコンピュータを上回るスピードの計算を実現するのが量子コンピュータ。そういう考えは間違いだ。まったく違うアプローチで問題にせまる。それがどういうことか考えてみよう。

これまでの格子場の理論のシミュレーションでは、時間を虚数にとることで元の模型を計算しやすい模型に変換しておき、モンテカルロ法を用いてもっとも起こりそうな場の配置をシミュレーションで取り出すという手法が用いられてきた。(このあたりの事情については以前に紹介したことがあるので、よかったら過去の記事を参照していただきたい。)虚時間を持ち出すところがミソで、こうすることでさまざまな場の配置に関する確率分布という問題にもちこむことができる。知りたい量の期待値を求めるには、モンテカルロ法で得られた場の配置が全体を代表すると思って平均を取ればよい。ここにはもはや場の変数のとる「波動関数」という概念は現れないことに注意しよう。ここで言う波動関数とは、空間に広がる場の変数のことではない。ある配置をもつ場があらわれる確率(ではなくて量子的な振幅)をあらわす量で、場のあらゆる配置に、ある複素数が割り当てられる。こういうのを「第2量子化」といって、場の量子論を学ぶときに混乱する原因なのだが、そこを意識しておかないと何をやっているのかわからなくなる。こうして得られた場の波動関数をすべて重ね合わせたものが、場の量子論における状態をあらわす。場の配置はそれこそ無限のバリエーションがあるので、それをすべて重ね合わせるのは無理というもので、そういう無理なことは放棄して(場全体がもつエネルギーなどの)期待値を求めることに特化したのが従来の手法だった。実際、この手法は大きな成功を収めたので、そのことについて文句を言う筋合いはないのだが、そこには放置されたままの問題があることも忘れてはならない。

その代表的なものが、場の時間発展を追うという問題だ。例えば、陽子と陽子の衝突で、いろんな粒子ができてそれらが飛び散っていく様子を考えたいとしよう。時間を追ってみていくと、陽子と陽子がぶつかった瞬間に両者がくっついてつぶれたり振動し、次の瞬間に引き千切れて離れていくことだろう。ところがこれまでのやり方では、初手から時間を虚時間に置き換えてしまったので、時間発展を考えようにもそこにはもう「時間」は存在しない。これではどうにもならない。実際、この問題は非常にやっかいで、量子論なのでいろんなことが同時に起こりうる。陽子と陽子が壊れてできる粒子は一通りではなく、それらの飛ぶ方向もいろんなものがあるだろう。そういうすべてが量子論の波動関数のなかに含まれているはずだ。波動関数は、ありとあらゆる分岐の可能性をすべて内包しながら時間発展していく。それらをすべて計算するにはどうすればいいだろうか。いろんな状態の重ね合わせになった波動関数の各々の状態がどう発展していくかをすべて追いかけるしかない。それは無理というものだ。

ここで登場するのが量子コンピュータ、ということになる。ある波動関数の時間発展を追いかけるということは、ハミルトニアン演算子を何度も掛けることに相当する。演算子をある状態に作用させると、一般には一つだけではなく別の状態を含む重ね合わせになる。さらに演算子を作用させると、それぞれの状態がまた別の状態を生成し、どんどん複雑な状態の重ね合わせに変化していく。実際、それこそが量子論での時間発展の本質で、シュレーディンガーの猫のように、全然違う状態を含んだ重ね合わせが生まれるわけだ。量子コンピュータでは、実際にこういうことが可能になる。最初はある量子ビットが上向きの状態だけだったものが、ハミルトニアンをかけるたびに周辺の量子ビットも巻き込みながら状態がどんどん複雑になっていく。そのすべては、個々の状態の行方を一つひとつ計算しなくても、全体に量子的な演算をかけることで実現される。これこそが、量子コンピュータが得意とする(はずの)ことで、従来の計算では手を出せなかった「波動関数」を扱うことが可能になるわけだ。

こうして状態の時間発展を追うことで可能になることは他にもある。例えば、いろんなエネルギーをもつ状態のなかから指定したエネルギーの状態を抜き出す問題だ。固有のエネルギーをもつ状態の時間発展は、そのエネルギーにしたがって複素位相が回転するだけなので、時間発展を正確に追うことができれば、フーリエ解析を使って異なるエネルギーの状態を分離することができる。従来のやり方では、虚時間を持ち込んだせいでこれができない。エネルギーの保存則も存在しないので、粒子の散乱や崩壊などの扱いが制限される。こういう問題も、量子計算が期待される応用の一つだ。

どんどん進歩する技術の将来を予測することは難しい。10年もすれば、上記のような問題が実際に扱えるようになるのだろうか。10年は無理でも私が生きているうちに、そういう未来を見てみたい、そして触ってみたいものだ。

2021年1月2日土曜日

量子コンピュータはどこがすごいのか、どうして使えないのか

新春だし、また少し脱線してみることにしたい。ここのところ少し気になっている量子計算についてだ。とは言っても、よく話に出るような、大きな数の因数分解を求めたり暗号を解読する問題についてではない。関心があるのは、格子ゲージ理論のような物理系のシミュレーションの可能性についてだ。ここ数年、私の分野でも、特にアメリカでは量子計算の手法開発がちょっとしたブームになっているように見える。皮肉な見方をすれば、政府が先頭に立って旗を振る、つまり金を配っているのに群がっているだけ、というふうに見えなくもない。ただ、通常のやり方ではできないことをやろうとしているのも確かなので、そこはやはり気になる。そこでいろんな論文を斜め読みしてみたが、確かにおもしろい問題であると同時に、難しい問題であるというのもわかってきた。以下は、専門家ではない人が外野席から興味本位で眺めてみた感想だと思っていただきたい。考え違いもあるだろうし、これが量子計算への入門になるわけではもちろんない。

量子計算はファインマンの夢であったと言われる。計算したいのは量子系で、そのヒルベルト空間(波動関数の取りうる可能性)は古典力学で考えるものよりもはるかに大きいので、従来の計算機ではすぐに頭打ちになる。量子系の問題を解きたいなら量子力学をそのまま扱える「計算機」を使うのが自然だ、というのがファインマンの考えだった。「計算機」という言葉に惑わされそうになるが、量子コンピュータは通常の計算機のように数を足したり掛けたりする機械ではない。実際に波動関数を作って、そこにあらかじめプログラムした操作(演算子)を加えることができる機械だ。小さな量子系を実際に作って「実験」する装置と言ってもよい。自分が解きたい問題に対応する実験装置を作ることができれば、「計算」する代わりに「実験」することができるわけだ。

 では、「波動関数を作る」とはどういうことだろうか。量子力学で出てくる波動関数には、調和振動子のように等間隔で無限個のエネルギー準位をもつものや、水素原子のような回転対称性をもつもの、そしてさらに複雑なものがいくらでもある。量子計算で考えるのは、その中でもっとも単純な2準位の波動関数だ。単純ではあるが、2つの状態がそれぞれ複素数の振幅を持つことができ、一般の状態はその重ね合わせになるので、それだけで結構複雑な話になる。この「量子ビット」が基本単位になり、量子ビットをいくつも組み合わせて相互作用を持たせたものが量子コンピュータというわけだ。

2準位をもつ系を実際に作るにはいろんなやり方がありうる。スピンの上向きと下向きを使うのでもいいし、小さな円状の回路に流れる電流の向きを制御するのでもいい。あるいは、光の円偏光を使って右巻きと左巻きで表現するのも考えられる。どうやるのが技術的にもっとも有利かというのは私にはわからない。世界中で多くの人が自分のやり方で実現を試みているのが現状で、多いときには数十個の量子ビットを制御できるようになっているらしい。数十個では自分が解きたい問題には少なすぎる、と思うことが多いだろう。きっとその通りで、本当に興味のある問題を解くには、現状より100倍、1000倍、あるいはもっと多くの量子ビットを必要とするはずだ。人々は、そういうのがそう遠くない将来に実現するだろうと期待して、そのときにできることを考えている。

解きたい問題が2準位系を組み合わせて書けるなら、話はおそらく単純だろう。実際、イジング模型のように、実際の問題をあるやり方で切り取った模型のなかには2準位で書けるものもある。そのハミルトニアン演算子を量子コンピュータの操作であらわせば、この量子系の時間発展を追うのは簡単だ。あとは、出てきた状態の測定を何度もくりかえして必要な演算子の期待値を「測定」すればよい。これが、この問題に対する「量子計算」の意味だ。

では、あなたの解きたい問題が2準位系ではなかったらどうすればいいだろうか。もっと多くの準位(あるいは状態)をもつ量子系を実現してもらうよう、量子コンピュータの設計者に頼むのは一つの解かもしれないが、きっと相手にしてもらえないだろう。あらゆる可能性に対応する量子コンピュータをいちいち作るのは現実的ではない。だとしたら、あなたの仕事はその問題を2準位系の問題に書き直すことだ。これは、状態数が有限であれば必ずできる。量子ビットをN個使えば、2のN乗個の量子状態を表現することができるので、N=10 ならば、1024個の状態を扱うことができる。ただし、1024個の状態をもつ波動関数に何か演算子を作用させようとすると、それを個々の量子ビットへの演算に落とし込むのはかなり複雑な話になってしまうだろう。あっちの量子ビットとこっちの量子ビットの状態を組み合わせて、その結果をまた別の量子ビットに作用させる、といったような話で、かなりイライラする操作を考えないといけない。実際の量子コンピュータの上では、何十個かの量子ビットがすべて隣同士でつながっているわけではなく、直接相互作用できる数は限られるので、離れた量子ビット同士の相互作用を実現するには複数の操作を組み合わせることになるに違いない。そういうわけで、自分の解きたい問題を量子コンピュータで再現できるように書き換えるのは、そんなに単純な話ではなさそうだ。

格子理論では、格子点上に配置された自由度が隣の格子点と相互作用をもつ。上記のような有限個の状態をもつ変数が各格子点にあるわけで、それらをさらに組み合わせていくことになる。数十個の量子ビットではまったく足らないことがわかるだろう。

さらに問題なのは、格子ゲージ理論のように、変数が連続的な値をもつ場合だ。格子上の各点には無限個の自由度があることになるので、それをあらわすには無限個の量子ビットが必要になる。そんなことはもちろんできないので、自由度を有限個に限るしかない。何らかのやり方で自由度を制限して有限個にした系で計算をしておき、最後に元の問題に戻るように外挿するという手順をとる必要がある。無限個の自由度を2個の自由度にまで制限するのはあんまりなので、8個とか16個とかから始めて、増やしながら計算をくり返して極限をとるわけだ。これだけでもかなり大変な話になりそうだというのが想像できるだろう。またしてもかなりの数の量子ビットを必要とする。

数十個や数百個の量子ビットをもつ量子コンピュータでは、「私が」解きたい問題にはまったく役に立たないというのはわかってもらえるだろう。例えば百万個くらいの量子ビットを扱えるようになれば話は変わってくる。それがどれくらい難しいことなのかは、私にはわからない。

さらにまずいことに、量子コンピュータは「間違う」。量子状態を壊さないように保つのは非常に難しい。多くの量子ビットを組み合わせてできる量子状態ならなおさらだ。ちょっとした熱ゆらぎなどですぐに壊れてしまう。それでは役に立たないので、誤り訂正の理論や技術も開発されているが、それにはまた何倍もの量子ビットを必要とするらしいので、これはこれで面倒な話になる。問題を解く側で誤り訂正を含めた問題設定ができればよいのかもしれない。そういうわけで、それ自体がまた一つの研究テーマになる。

かなり悲観的だと思われたかもしれない。「量子超越」が大々的に宣伝されたりするが、少なくともここで考えるような問題に量子コンピュータが使えるようになるのは、まだかなり先になりそうだ。だとしたら、人々はなぜ量子計算に惹かれるのか。「量子コンピュータはどこがすごいのか」は、また明日にしておこう。