2021年3月19日金曜日

一念岩をも通す

このシリーズを書き始めたのは、アメリカの友人たちがついにK中間子崩壊での直接的CPの破れの格子QCD計算に成功させたのに、何というか少し感動したからだった。研究者というのは勝手なもので、たいてい自分の研究が一番だと思っていて、他の誰かの研究のことは何かとけなしたりするものだ。少し感心することはあっても、感動することはめったにない。私が感動、と言ったのは、単にこの研究が優れているためだけではない。この研究がもう30年以上にもわたる努力の結晶だったからだ。

格子QCDが理論として提案されたのは1970年代のこと、量子色力学(QCD)が出てきてまだ間もないころだった。結合定数を強くなる極限での計算ができたことで、クォークの閉じこめを説明できる可能性がでてきた。だがこのままでは現実世界の計算にはならない。本格的な計算にはシミュレーションが不可欠、ということで初期のシミュレーションが出てきたのが1980年代前半だった。すべてをまともに計算するには膨大な計算量が必要になるため、さまざまな近似をしてようやくそれらしい計算ができる。クォークは確かに閉じこめられるらしい。それが初期の成果だった。そうなると、もっといろんなものが計算できるのではないか夢をえがく。パイ中間子の質量とか陽子の質量とか、試しに計算してみるとそれらしい数字が出てくる。これはいい。1980年代の終わりころのことだ。

ブルックヘブン国立研究所やコロンビア大を中心とする研究者らが、 K中間子崩壊の本格的な計算をしてみたいと思ったのはこのころではなかったか。ブルックヘブンこそ、CP対称性の破れが実験で見つかった総本山みたいなところだ。エキサイティングな進展を目の当たりにしてきた理論家らがその計算をしてみたいと思ったのも無理はない。ところが、そこには乗り越えなければならない問題が山ほどあった。ここで改めて問題点をあげてみよう。そして、それらがどうやって克服されてきたのかも見ていくことにする。

  1. カイラル対称性が必要。カイラル対称性とは、フェルミオンの右巻きと左巻きを区別する対称性のこと。これが重要なのは、弱い力が左巻きにしか働かないようにできているためだ。理論計算の途中でもカイラル対称性をきちんと満たしておかないと、左巻きが勝手に右巻きに変わることがあって、本当は起こり得ない現象が起こったり、結果が何倍も間違ったりする。格子理論でカイラル対称性を保つのは非常にやっかいな理論的な問題で、アノマリーとも関係する。これを解決したのがドメインウォール・フェルミオンという理論の発明で、いまはやりのトポロジカル絶縁体のようなものだ。これが出てきたのが1990年代のこと。本格的にシミュレーションが行われるようになったのは2000年代からだ。ただし、ドメインウォール・フェルミオンでは、5次元空間の4次元表面を用いる。次元の一つ高い空間を扱うために、その分、計算量が数倍余計にかかることになる。
  2. 弱い力をあらわす法則を格子上で精密に表現すべし。弱い力は、Wボソンの交換を通じて起こる。Wボソンは非常に重いので、格子QCD計算でそのまま扱うことはできず、低エネルギーでの有効理論を使うことになる。量子論というのはやっかいなもので、勝手な理論を作るといろんな発散が出てきて手に負えない。発散が起こらないようにするには、有効理論を「正しい」理論と比較して同じ結果を与えるようにパラメタを調整しておかないといけない。こういうのを広い意味で「くりこみ」と呼ぶのだが、これを K中間子崩壊にかかわる有効理論について計算しておかないといけない。「正しい」理論としては摂動計算を使うが、摂動計算と格子計算の両方が使えるような基準量を考えるのがチャレンジとなる。これも2000年代を通じて大きな開発項目になった。
  3. 終状態はパイ中間子2個。これを扱うには、2個の粒子を有限体積に閉じこめたときに出てくる波動関数の位相差を見る必要がある。2粒子間の位相差をエネルギーの微妙な変化から読み取る理論的な枠組みがでてきたのは1990年ころ。数年後には、K中間子崩壊の計算につなげる枠組みも出てきた。ただし、やはり計算量が非常に大きくなるためにすぐには本格的な計算はできなかった。
  4. フェルミオンの対生成・対消滅を取り入れる。これがとても大変で、これをどうにかすべく、分野全体が2000年代をかけて悪戦苦闘した。何が大変かというと、フェルミオンの満たすべき性質であるパウリの排他律を満たそうとすると、ゲージ場の局所的な変化の影響が全空間に及んでしまうことだ。格子QCDシミュレーションでは、モンテカルロ法にしたがってゲージ場のサンプルを生成するが、そのサンプルをごくわずか更新しただけでも格子体積全体の影響を調べて反映させる必要がある。これが大変な計算量になるため、現実的な計算を実現するには様々な改善が必要だった。特に軽いクォークは空間的に遠くまで容易に影響するため大変な計算になる。この問題は、短距離、中距離、遠距離の影響を別々に扱うことで全体で効率的な計算が可能になった。
  5. 速い計算機を作る。膨大な計算が必要なら、そのための計算機を作ってしまえばよい。買ってきた計算機よりも何倍も速いものができるなら、やってみる価値がある。これは単純なアイデアで可能になる。4次元空間をあらわす格子をサイコロ状に切り、それぞれを別の計算機に計算させる。隣の情報が必要になったときにはデータを通信してやりとりすればよい。先進的な並列計算機は格子QCD計算から生まれた。筑波大のPACSシリーズもその一つだ。アメリカではコロンビア大のQCDOCが有名で、その後のIBM BlueGeneシリーズにつながった。1990年代には QCD に起源をもつマシンがスパコンの世界をリードし、こうした並列計算機が普通になって現在の富岳にまでつながっている。
  6. いよいよ現実に。2010年代になって、格子QCD計算は現実に近づいてきた。クォークを軽くするのが大変だったが、アルゴリズムの改善と計算機の高速化で克服された。現実のアップクォーク、ダウンクォークのシミュレーションが可能になり、さらには格子間隔を数点とって連続極限を評価することもできるようになった。例えば陽子・中性子の質量は実験値を精密に再現できる。K中間子でいえば、そのレプトン対への崩壊や、パイ中間子1つとレプトン対への崩壊でも精密な計算が可能になった。
こうしたあらゆる面での理論的な発見と改善が分野をあげて続けられたが、その間もコロンビア大などのグループは一貫してK中間子崩壊の問題に取り組んできた。もちろん、これらの改善をすべて取り入れながら。30年たてば若かった人も30だけ歳をとる。その間、情熱を失わず邁進してきたのは尊敬すべきことではないか。

2021年3月14日日曜日

50年以上もわからなかったこと

素粒子にはこれこれの種類があって、相互作用はこれとこれ、まだわからない謎はこれ。素粒子物理は、素粒子の標準模型という形に整理されて基礎方程式もわかっているので、学ぶ側としてはわかりやすい。とは言え、そこに至る前にはさまざまな混乱があった。なかでも強い力にかかわる現象は混沌としていて、良く言えば多様な、悪く言えば場当たり的な理論があれこれ作られた。今にして思えば、複雑な内部構造をもつ粒子がぶつかったり壊れたりするのを扱っていたので、難しいのは無理もない。結局、素粒子物理はこの難しい強い力の問題を飛び越えて高エネルギーに進むことで、より小さなスケールでの法則を理解するという目標に到達することができたわけだが、実はその途中で見つかった難しい問題の多くは放置されてそのままになっている。K中間子の崩壊に関する ΔI = 1/2 則もその一つだ。 

「ΔI = 1/2 則」。何のことだろう。まず I (アイ)は前回も出てきたアイソスピンを意味する。Δ(デルタ)は差のことなので、これは反応の前後でアイソスピンが 1/2 だけ変化する過程に関する法則のことだ。K中間子がパイ中間子2個に崩壊するとき、パイ中間子2個の状態にはアイソスピンが2のものと0のものがあるというのを前回紹介した。一方で、K中間子にはダウンクォークが一つ入っていてアップクォークはないので、K中間子のアイソスピンは 1/2 になる。つまり、この過程では、アイソスピンが 3/2 (パイ中間子2個のアイソスピンが2の場合)、あるいは 1/2 (パイ中間子2個のアイソスピンが0の場合)だけ変化する振幅が存在することになる。ΔI = 1/2 則が言っているのは、アイソスピンが 1/2 だけ変化する過程の振幅が、もう一方よりずっと大きい、ということだ。何かの法則みたいな名前だが、何のことはない、実験で測られた結果を見るとそうなっている。もはや大昔、1950年代に発見されたことだが、具体的には、ΔI = 1/2 の振幅が、ΔI = 3/2 よりも22倍程度大きい。崩壊確率はこれを2乗するので、500倍近くの違いがあることになる。これはなぜだろうか。

量子色力学(QCD)が発見される前には、この現象を理解するすべは何一つなかった。QCD が確立したあとでも、この崩壊を計算することは容易ではなく、かなりおおざっぱな近似を用いた計算では、2倍の違いなら説明できそうだったが、22倍とはまだかなりの開きがある。そういうわけで、この問題はやはり難しいままで残されてきた。最終的な理解のためには、QCDの本当の計算を可能にする格子QCDシミュレーションに頼るほかない。

ところが、格子QCD計算を用いたとしても、これは容易な話ではない。まず終状態がパイ中間子2個の状態であり、それらの再散乱も含めた計算をしないといけない。それぞれのパイ中間子が特定の運動量をもった状態を抜き出さないといけない。このシリーズで以前に解説したが、それぞれ難しい問題だ。そして、ΔI = 1/2 、つまりパイ中間子2個がアイソスピン0をもつ状態がもう一つの大きなチャレンジとなる。アイソスピンが0ということは、全体としてはアップクォークもダウンクォークも存在しないということを意味する。最終的にはパイ中間子が2個出てくるのだが、そこに至る途中では、クォークと反クォークがすべて対消滅してグルーオンの背景場だけが残ったような状態を経由することもある。これも脱線中に紹介した η’(エータ・プライム)中間子の計算が難しいのと同じで、こういう状態を計算しようとすると計算の統計ノイズが大きくなってしまって、まともな結果が得られない。こういう困難を一つ一つ解決する必要があるのだ。

2021年3月13日土曜日

道は一つではない

自転車通勤をしていると、毎日同じ道だと飽きてくる。せっかくの田舎道を楽しむために、少し遠回りになってもいろんな道を通ってみたい。それぞれに違う季節の便りを感じることもできる。今週の発見は、今年初めてのウグイスの鳴き声だった。道を選ぶ決め手は、信号のタイミング。長めの信号待ちは職場までに3ヶ所ある。ぎりぎりで赤信号に変わったときは、別の経路を選ぶチャンスということで、遠回りすることにしている。家を出るときには、どちらを通るかわからない重ね合わせの状態にあるわけで、量子力学の波動関数の気持ちを毎日体感することができる、気がする。

これまでだいぶ脱線してしまった。脱線は楽しいのだが、脱線したまま数ヶ月がたつと、もともと何の話をしようとしていたのかわからなくなってくる。もともとK中間子崩壊における直接的CP対称性の破れの大きさを、格子QCD計算でどうやって計算したのかを解説しようとして始めたんだった。それがいつのまにか量子色力学やら、その量子化手段としての経路積分、インスタントン、果てはアノマリーまで出てきて収拾がつかなくなってしまった。それぞれに理由があって登場させたのだが、読んでくださっている方には何のことかわからなかっただろう。そろそろ元に戻るときだ。

CP対称性の破れというのは、粒子と反粒子を入れかえたときに、法則がまったく同じにはならないということを意味する。もちろん電荷が逆になったりする違いはあるのだが、そういう当たり前の違いを除いても、粒子の崩壊確率などに違いがある。それが最初に見つかったのはK中間子の崩壊においてだった。中性K中間子は、パイ中間子2個もしくは3個に壊れる。パイ中間子2個の状態のCPはプラス、3個の状態はマイナスなので、それぞれに応じて中性K中間子にもCPプラスの状態(Kショートと呼ばれる)とCPマイナスの状態(Kロング)の2種類がある。最初に見つかったのは、CPマイナスのはずだったKロングが、CPプラスの状態であるパイ中間子2個に壊れる事象だった。この現象は、中性K中間子が、そのままパイ中間子2個に壊れる波動関数と、一度K中間子の反粒子に遷移してからパイ中間子2個に壊れる波動関数の重ね合わせ、つまり干渉によって起こる。CP対称性の破れは、常にこうした干渉効果を通じて起こる量子的現象だ。

だが今回の主役になるのはこれではない。中性K中間子がパイ中間子2個に壊れるところまでは同じだが、もう少し詳細を見ることになる。パイ中間子2個のペアで全体の電荷がゼロになるものには、荷電パイ中間子のプラスとマイナスのペア、それにもう一つ、中性パイ中間子2個のペア、という2つの可能性がある。これらは、いずれもアイソスピンの言葉では、アイソスピンが2の状態と0の状態の重ね合わせになっている。アイソスピンというのはアップ・クォークとダウン・クォークを区別する量子数のこと(以前のアイソスピンの項を参照)で、1個のパイ中間子(荷電パイ中間子のプラスとマイナス、あるいは中性パイ中間子)は、アイソスピン1をもつ3つの状態のうちの1つになっている。パイ中間子が2個になると、アイソスピン1の状態を二つ組み合わせることで、アイソスピン2と0があらわれる。(量子力学を勉強すると後半に出てくる角運動量の合成というやつだ。面倒だけど、結局勉強しないといけなくなる。) 現実の状態はこのいずれかにきちんと対応しているわけではなく、アイソスピン2と0の状態をあるやり方で重ね合わせたものに相当する。

ややこしい話になってきた。中性パイ中間子2個の状態が実験で観測されたとき、それは実はアイソスピン2の状態だったかもしれないし、あるいはアイソスピン0の状態だったかもしれない。量子論の重ね合わせなので、どちらかを言うことはできないわけだ。これらの2つの波動関数の重ね合わせを通じて干渉が起こりうる。そして、その干渉を通じてCP対称性の破れが起こる可能性がある。実験によって、このCP対称性の破れを取り出すには、巧妙に考え出されたいろんな崩壊過程の比を使うのだが、それはここではいいことにしよう。とにかく、2つの崩壊過程をあらわす波動関数(量子論的な振幅とも呼ばれる)の干渉を通じてCP対称性が破れる。これを直接的CPの破れという。

この直接的CPの破れが実験で確認されたのが90年代の前半。すでに25年以上が経つ。ところが、理論的な計算があまりに難しいために長い間棚ざらしの状態になっていた。最近の格子QCD計算は、ついにこの計算ができるようになったという大きなエポックとなった。