2021年5月22日土曜日

ミューオン g-2 の理論予言:実験データをインプットするか、理論計算か

そこに新物理はあるのか、ないのか。ミューオンg-2の実験結果と素粒子標準模型とのずれは本物だろうか。実験結果が動かないとすると、光子真空偏極の理論計算が信用できるかどうかにかかっている。従来の計算は純粋に計算ではなく、別のデータをインプットにして評価したものだ。一方で、最新の格子QCD計算は、基礎パラメタを決めるごく限られたインプットをもとに大規模シミュレーションで得られた。両者がずれているせいで、どちらを信用するかという話になってしまっている。正しくは、「格子QCD計算が実験値(光子真空偏極)を再現できない。なぜだろう」というべき話なのだが。

もう一度基本に返ってみよう。ミューオンg-2の摂動計算では、ミューオンが光子を放出して再吸収する過程を考慮する。 この光子はさらにクォーク・反クォークになって元に戻る過程が起こりうる。これを光子の真空偏極と呼ぶ。これらはすべて仮想的な過程だ。摂動計算のなかでは光子のもつエネルギーが現実に許されない領域にあるので、実際にクォークが出てくるわけではない。一方、これに似た過程で、実際にクォークが出てくるものがある。電子・陽電子衝突からのクォーク・反クォーク生成だ。電子・陽電子は対消滅して仮想光子をつくる。この光子がクォークと反クォークの対をつくり、(クォークは単独では存在できないので)パイ中間子などをつくって実験で測定される。最終的に出てくるすべての状態をカウントしておけば、これを光子の真空偏極(光子→クォーク・反クィーク対→光子)に焼き直すことができる。「すべての状態」というのがミソで、量子論の基本原理「起こりうることはすべて同時に起こる」にしたがって計算するにはあらゆる可能な状態を考慮する必要がある。ただし、あまりに大きなエネルギーの状態は相対的に効かなくなるので、数GeV程度の光子のエネルギーまでを考慮すればよい。実際にこれをやったのが、従来からある「理論計算」で、そこでは数多くの電子・陽電子衝突のデータを集めてきて注意深く組み合わせる。これは実のところ大変な作業で、長い時間をかけて進められてきた。KEKの萩原さんと野村さんらのグループは、この解析に先鞭をつけ、アップデートを続けてきた。実験データのほうも、さまざまな終状態のものをすべて測定する必要があるので、簡単な話ではない。多くの人の努力で得られた結果だ。

一方で、格子QCD計算のほうは一見単純な話だ。現実には許されないエネルギーをもつ光子のグリーン関数を計算すると、そこから対生成するクォーク・反クォーク、さらに付随して出てくるグルーオンなどの効果をすべて自動的に取り入れた計算ができる。あとは離散化による誤差を取り除くために格子間隔をゼロにする極限をとればできあがり。格子QCD計算は陽子・中性子やさまざまな中間子の質量などを精密に再現できることがわかっているので、光子真空偏極についても信じない理由はない。では何が問題なのか。

量子論とは驚くべきもので、あらゆる状態があらわれては消える、そのすべてを取り入れて初めて正しい答えが得られる。その中にはパイ中間子が2個の状態や3個、あるいは他の状態がすべて含まれる。格子QCD計算ではそれらを一つ一つ指定することはしないが、実際にはすべて入っているはずだ。なかでもミューオンg-2への寄与が大きいのはパイ中間子2個の状態なので、ここは注意深く見ておく必要がある。実のところ、これは格子QCD計算にとっては一つの大きなチャレンジであることがわかる。つまり、粒子を2個含む状態を扱うという問題だ。粒子が2つあると、両者の間には相互作用がおこる。単に粒子が2個あるだけではなく、それらの散乱を考えないといけない。散乱振幅は両者の相対運動量あるいはエネルギーによって決まる。これを正しく計算できれば、現実の物理過程としては電子・陽電子衝突でのパイ中間子2個の生成断面積が得られることになる。こういう計算ができるようになったのは比較的最近のことで、パイ中間子2個の共鳴状態としてあらわれるρ中間子のピークと幅を正しく計算できることもわかった。ただし、実験のほうでは単に共鳴の高さと幅だけでなく、より細かい構造が見えているのだが、格子QCD計算ではそこまでは得られていない。

ちょっと待った。電子・陽電子衝突でのパイ中間子2個の生成が格子QCD計算で再現できているとしたら、ミューオンg-2に出てくる光子真空偏極の主要部分については実験データと格子QCD計算が合っているということではないか。だとすれば食い違いの原因は何だろうか。パイ中間子3個の状態か、それとも他の何かか。

こう考えてくると、これからやるべきことが見えてくる。格子QCD計算をもっと分解してみて、一つずつ実験値と比較検証すればよい。ただし、格子QCD計算から個別の過程(パイ中間子2個だけとか3個とか)を取り出すのは容易ではない。代わりに、いろんなエネルギー領域に分けて個別に調べることが考えられる。これが、Muon g-2 Theory Initiative のやろうとしている次のステップだ。6月にKEK主催で開かれるワークショップでは、その詳細が議論されることになる。

2021年5月16日日曜日

ミューオン g-2 の理論予言:BMWの計算は正しいのか

先月発表されたミューオン異常磁気能率(g-2)の新しい実験結果(Fermilab)は、以前の結果(BNL)を追認する形になった。実験の詳細を理解するのは私には難しいが、セミナーを聞く限り以前よりもさまざまな系統誤差の要因を調べ上げており、全体として信頼性は格段に上がったと感じた。いまのところ誤差はBNLのものと大差ないが、まだ解析されていないデータもすでに取得しており、さらにデータが増える予定だということで、誤差は今後小さくなっていくことになるだろう。

驚きだったのは、BMW(ブダペスト・マルセイユ・ブッパータール)グループの格子QCD計算の結果が同じ日にネイチャーから発表されたことだ。光子の真空偏極効果はクォークを含むために通常の摂動的計算が使えない。従来は関係する実験データを使って評価していたが、BMWグループの格子QCD計算はそれとはずれていた。もしこの計算が正しければ、ミューオンg-2の実験値は標準模型による予言とそれほどずれていないことになり、新物理の効果!と人々が期待していたのは幻だったことになる。

「驚きだ」というのは、BMWグループの計算結果ではない。結果自体は1年以上前に arXiv に出ていたので、関係者はみな知っていた。今回 Nature がそれをわざわざ実験の発表日に合わせて出版し、話題をさらったのは見ていて気持ちのいいものではなかった。Fermilab 実験グループの人たちは、せっかくの発表なのに話題を半分横取りされた形になったわけだ。誰も口にはしないが、おもしろくなかっただろう。

ともあれ、今回の格子QCD計算の結果が重要な意味をもつことは確かだ。本当に正しいのか。正しいとしたら、従来の実験データを用いた解析とずれているのはなぜか。今後、検証が進むことになるだろう。私も格子QCD計算の専門家の一人なので、何人かの人から「BMWの結果は本当に正しいんですか?」と聞かれた。私も答えようがないのだが、一つ言えるのは、BMWグループは現時点でできる最善の仕事をしたということだ。ほんの数年前までは、1%以下の精度の格子QCD計算ができるとは思われていなかった。非常に大規模な計算と解析をやり切った実力は本物だ。このグループはこれまでも、ハドロン質量の計算などで大きな成果をあげてきた。間違いなく世界をリードする研究グループと言える。(素粒子理論の分野では例外的に、秘密主義を通すことでも知られる。つまり、やっていることを途中では明かさず、最後に結果を大々的に発表する。そのため、発表時に明かされた手法が他グループによって十分に検証されていない、ということが起こる。徐々に解消されることになるだろうが。)

ここで、BMWグループの計算にありうる問題点をあげておこう。ただし、そこが問題だから余分な系統誤差があると言うわけではない。論文を読む限り、できるだけのことをやって誤差を削減・評価しているように見える。それでも私には微妙なところがあるように思える、というだけの話で、詳細は今後の検証を待つ他ない。

格子QCD計算では、有限の格子間隔と格子体積で数値シミレーションを実行する。この計算は離散化による誤差と有限体積による誤差を含むので、最後に格子間隔をゼロに、格子体積を無限大にもっていく極限を取ってはじめて正しい答えが得られることになる。答えは数値で出てくるので、極限はデータを外挿することで得られるわけだが、それがどれだけ制御できているかが問題になる。2つの極限を同時に取るのは大変なことで、そのために異なる格子間隔と体積のデータを多数そろえる必要がある。(他にもインプットするクォーク質量を正しい値に内挿する必要があるので、現実にはもっと大変になる。)実は、このグループが採用した格子理論では、離散化誤差の問題と有限体積の問題が互いにからみあうというややこしいことが起こる。

これを説明し始めると格子理論の講義みたいになってしまうので、ポイントだけにしよう。彼らが採用した格子理論では、離散化誤差によって現実のパイ中間子に相当する質量の異なる粒子がいくつも(16個)出てきてしまう。格子間隔をゼロに取る極限では、これらのパイ中間子の質量はすべて同じになるので問題は解消するはずだが、現実の計算では10%くらいの無視できない大きさで質量のずれたパイ中間子が存在する。光子真空偏極には、これらのパイ中間子がそれぞれ効くので、1%以下の精度を達成するには大きな問題になる。実際、格子間隔を小さくしていくと計算結果は大きく動き、その極限が1%の精度で決まっているかというと微妙なところだ。問題を削減するために、彼らはいくつかの理論的な模型を使ってパイ中間子質量のずれに起因する誤差を補正した。やってみると、格子間隔に対する大きな依存性はほぼ解消し、連続極限はほぼ安定になるように見える。それはいいのだが、問題は「理論的な模型」をどれだけ信頼できるかだ。もっともらしい模型ではあっても、1%以下の精度で正しいかというと不安は残る。

パイ中間子はハドロンのなかでもっとも軽い粒子なので、有限体積効果の最大の原因になる。その質量が10%も変わると、有限体積効果もそれに応じて変わる。有限体積効果を調べるためには大きな格子体積でのシミュレーションをやってみるしかないが、それは比較的大きな格子間隔でしかできない。そうすると離散化誤差が大きくなり、パイ中間子質量のずれも大きくなる。(現実は厳しいのだ。)おかげで、有限体積効果による補正が格子間隔によることになる。これも格子間隔ゼロの極限を取れればよいのだが、計算コストが大きくなりすぎてできない。ではどうするか。彼らは比較的大きな格子間隔でもパイ中間子質量のずれが小さくなるような格子理論(論文中では 4HEX と呼んでいる)を作って、有限体積効果を調べるのに使った。これなら比較的格子間隔が小さいときの計算を模擬できるだろうという考えだ。そんなことができるなら、最初からぜんぶ 4HEX でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、実はこれは別のところで離散化誤差が大きくなることがわかっているので積極的には使いづらい。(どうもそういう事情は書かれていないようだ。)そういうわけで、有限体積効果を見積もるときだけ使う。ここも私には不安になるところの一つだ。この有限体積補正が3%程度あって無視できない。実際、実験データを使った解析とのずれも、ちょうどこれと同じくらいの大きさだ。

他にもいろんなチェックポイントはあるだろう。今後、いろんな側面からチェックが進むことになるだろうが、同じくらいの精度で計算するには大きな計算コストがかかる。BMWグループは、計算コストの「軽い」格子理論を使ったのでここまでできたのだが、おかげで上記のような問題が出てきてしまった。他のグループはそういう問題の出ない手法で計算を進めているが、数値精度の点でまだ及ばない。本当に解決するにはまだしばらくかかりそうだ。