2021年5月16日日曜日

ミューオン g-2 の理論予言:BMWの計算は正しいのか

先月発表されたミューオン異常磁気能率(g-2)の新しい実験結果(Fermilab)は、以前の結果(BNL)を追認する形になった。実験の詳細を理解するのは私には難しいが、セミナーを聞く限り以前よりもさまざまな系統誤差の要因を調べ上げており、全体として信頼性は格段に上がったと感じた。いまのところ誤差はBNLのものと大差ないが、まだ解析されていないデータもすでに取得しており、さらにデータが増える予定だということで、誤差は今後小さくなっていくことになるだろう。

驚きだったのは、BMW(ブダペスト・マルセイユ・ブッパータール)グループの格子QCD計算の結果が同じ日にネイチャーから発表されたことだ。光子の真空偏極効果はクォークを含むために通常の摂動的計算が使えない。従来は関係する実験データを使って評価していたが、BMWグループの格子QCD計算はそれとはずれていた。もしこの計算が正しければ、ミューオンg-2の実験値は標準模型による予言とそれほどずれていないことになり、新物理の効果!と人々が期待していたのは幻だったことになる。

「驚きだ」というのは、BMWグループの計算結果ではない。結果自体は1年以上前に arXiv に出ていたので、関係者はみな知っていた。今回 Nature がそれをわざわざ実験の発表日に合わせて出版し、話題をさらったのは見ていて気持ちのいいものではなかった。Fermilab 実験グループの人たちは、せっかくの発表なのに話題を半分横取りされた形になったわけだ。誰も口にはしないが、おもしろくなかっただろう。

ともあれ、今回の格子QCD計算の結果が重要な意味をもつことは確かだ。本当に正しいのか。正しいとしたら、従来の実験データを用いた解析とずれているのはなぜか。今後、検証が進むことになるだろう。私も格子QCD計算の専門家の一人なので、何人かの人から「BMWの結果は本当に正しいんですか?」と聞かれた。私も答えようがないのだが、一つ言えるのは、BMWグループは現時点でできる最善の仕事をしたということだ。ほんの数年前までは、1%以下の精度の格子QCD計算ができるとは思われていなかった。非常に大規模な計算と解析をやり切った実力は本物だ。このグループはこれまでも、ハドロン質量の計算などで大きな成果をあげてきた。間違いなく世界をリードする研究グループと言える。(素粒子理論の分野では例外的に、秘密主義を通すことでも知られる。つまり、やっていることを途中では明かさず、最後に結果を大々的に発表する。そのため、発表時に明かされた手法が他グループによって十分に検証されていない、ということが起こる。徐々に解消されることになるだろうが。)

ここで、BMWグループの計算にありうる問題点をあげておこう。ただし、そこが問題だから余分な系統誤差があると言うわけではない。論文を読む限り、できるだけのことをやって誤差を削減・評価しているように見える。それでも私には微妙なところがあるように思える、というだけの話で、詳細は今後の検証を待つ他ない。

格子QCD計算では、有限の格子間隔と格子体積で数値シミレーションを実行する。この計算は離散化による誤差と有限体積による誤差を含むので、最後に格子間隔をゼロに、格子体積を無限大にもっていく極限を取ってはじめて正しい答えが得られることになる。答えは数値で出てくるので、極限はデータを外挿することで得られるわけだが、それがどれだけ制御できているかが問題になる。2つの極限を同時に取るのは大変なことで、そのために異なる格子間隔と体積のデータを多数そろえる必要がある。(他にもインプットするクォーク質量を正しい値に内挿する必要があるので、現実にはもっと大変になる。)実は、このグループが採用した格子理論では、離散化誤差の問題と有限体積の問題が互いにからみあうというややこしいことが起こる。

これを説明し始めると格子理論の講義みたいになってしまうので、ポイントだけにしよう。彼らが採用した格子理論では、離散化誤差によって現実のパイ中間子に相当する質量の異なる粒子がいくつも(16個)出てきてしまう。格子間隔をゼロに取る極限では、これらのパイ中間子の質量はすべて同じになるので問題は解消するはずだが、現実の計算では10%くらいの無視できない大きさで質量のずれたパイ中間子が存在する。光子真空偏極には、これらのパイ中間子がそれぞれ効くので、1%以下の精度を達成するには大きな問題になる。実際、格子間隔を小さくしていくと計算結果は大きく動き、その極限が1%の精度で決まっているかというと微妙なところだ。問題を削減するために、彼らはいくつかの理論的な模型を使ってパイ中間子質量のずれに起因する誤差を補正した。やってみると、格子間隔に対する大きな依存性はほぼ解消し、連続極限はほぼ安定になるように見える。それはいいのだが、問題は「理論的な模型」をどれだけ信頼できるかだ。もっともらしい模型ではあっても、1%以下の精度で正しいかというと不安は残る。

パイ中間子はハドロンのなかでもっとも軽い粒子なので、有限体積効果の最大の原因になる。その質量が10%も変わると、有限体積効果もそれに応じて変わる。有限体積効果を調べるためには大きな格子体積でのシミュレーションをやってみるしかないが、それは比較的大きな格子間隔でしかできない。そうすると離散化誤差が大きくなり、パイ中間子質量のずれも大きくなる。(現実は厳しいのだ。)おかげで、有限体積効果による補正が格子間隔によることになる。これも格子間隔ゼロの極限を取れればよいのだが、計算コストが大きくなりすぎてできない。ではどうするか。彼らは比較的大きな格子間隔でもパイ中間子質量のずれが小さくなるような格子理論(論文中では 4HEX と呼んでいる)を作って、有限体積効果を調べるのに使った。これなら比較的格子間隔が小さいときの計算を模擬できるだろうという考えだ。そんなことができるなら、最初からぜんぶ 4HEX でやればいいじゃないかと思うかもしれないが、実はこれは別のところで離散化誤差が大きくなることがわかっているので積極的には使いづらい。(どうもそういう事情は書かれていないようだ。)そういうわけで、有限体積効果を見積もるときだけ使う。ここも私には不安になるところの一つだ。この有限体積補正が3%程度あって無視できない。実際、実験データを使った解析とのずれも、ちょうどこれと同じくらいの大きさだ。

他にもいろんなチェックポイントはあるだろう。今後、いろんな側面からチェックが進むことになるだろうが、同じくらいの精度で計算するには大きな計算コストがかかる。BMWグループは、計算コストの「軽い」格子理論を使ったのでここまでできたのだが、おかげで上記のような問題が出てきてしまった。他のグループはそういう問題の出ない手法で計算を進めているが、数値精度の点でまだ及ばない。本当に解決するにはまだしばらくかかりそうだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿