2021年3月13日土曜日

道は一つではない

自転車通勤をしていると、毎日同じ道だと飽きてくる。せっかくの田舎道を楽しむために、少し遠回りになってもいろんな道を通ってみたい。それぞれに違う季節の便りを感じることもできる。今週の発見は、今年初めてのウグイスの鳴き声だった。道を選ぶ決め手は、信号のタイミング。長めの信号待ちは職場までに3ヶ所ある。ぎりぎりで赤信号に変わったときは、別の経路を選ぶチャンスということで、遠回りすることにしている。家を出るときには、どちらを通るかわからない重ね合わせの状態にあるわけで、量子力学の波動関数の気持ちを毎日体感することができる、気がする。

これまでだいぶ脱線してしまった。脱線は楽しいのだが、脱線したまま数ヶ月がたつと、もともと何の話をしようとしていたのかわからなくなってくる。もともとK中間子崩壊における直接的CP対称性の破れの大きさを、格子QCD計算でどうやって計算したのかを解説しようとして始めたんだった。それがいつのまにか量子色力学やら、その量子化手段としての経路積分、インスタントン、果てはアノマリーまで出てきて収拾がつかなくなってしまった。それぞれに理由があって登場させたのだが、読んでくださっている方には何のことかわからなかっただろう。そろそろ元に戻るときだ。

CP対称性の破れというのは、粒子と反粒子を入れかえたときに、法則がまったく同じにはならないということを意味する。もちろん電荷が逆になったりする違いはあるのだが、そういう当たり前の違いを除いても、粒子の崩壊確率などに違いがある。それが最初に見つかったのはK中間子の崩壊においてだった。中性K中間子は、パイ中間子2個もしくは3個に壊れる。パイ中間子2個の状態のCPはプラス、3個の状態はマイナスなので、それぞれに応じて中性K中間子にもCPプラスの状態(Kショートと呼ばれる)とCPマイナスの状態(Kロング)の2種類がある。最初に見つかったのは、CPマイナスのはずだったKロングが、CPプラスの状態であるパイ中間子2個に壊れる事象だった。この現象は、中性K中間子が、そのままパイ中間子2個に壊れる波動関数と、一度K中間子の反粒子に遷移してからパイ中間子2個に壊れる波動関数の重ね合わせ、つまり干渉によって起こる。CP対称性の破れは、常にこうした干渉効果を通じて起こる量子的現象だ。

だが今回の主役になるのはこれではない。中性K中間子がパイ中間子2個に壊れるところまでは同じだが、もう少し詳細を見ることになる。パイ中間子2個のペアで全体の電荷がゼロになるものには、荷電パイ中間子のプラスとマイナスのペア、それにもう一つ、中性パイ中間子2個のペア、という2つの可能性がある。これらは、いずれもアイソスピンの言葉では、アイソスピンが2の状態と0の状態の重ね合わせになっている。アイソスピンというのはアップ・クォークとダウン・クォークを区別する量子数のこと(以前のアイソスピンの項を参照)で、1個のパイ中間子(荷電パイ中間子のプラスとマイナス、あるいは中性パイ中間子)は、アイソスピン1をもつ3つの状態のうちの1つになっている。パイ中間子が2個になると、アイソスピン1の状態を二つ組み合わせることで、アイソスピン2と0があらわれる。(量子力学を勉強すると後半に出てくる角運動量の合成というやつだ。面倒だけど、結局勉強しないといけなくなる。) 現実の状態はこのいずれかにきちんと対応しているわけではなく、アイソスピン2と0の状態をあるやり方で重ね合わせたものに相当する。

ややこしい話になってきた。中性パイ中間子2個の状態が実験で観測されたとき、それは実はアイソスピン2の状態だったかもしれないし、あるいはアイソスピン0の状態だったかもしれない。量子論の重ね合わせなので、どちらかを言うことはできないわけだ。これらの2つの波動関数の重ね合わせを通じて干渉が起こりうる。そして、その干渉を通じてCP対称性の破れが起こる可能性がある。実験によって、このCP対称性の破れを取り出すには、巧妙に考え出されたいろんな崩壊過程の比を使うのだが、それはここではいいことにしよう。とにかく、2つの崩壊過程をあらわす波動関数(量子論的な振幅とも呼ばれる)の干渉を通じてCP対称性が破れる。これを直接的CPの破れという。

この直接的CPの破れが実験で確認されたのが90年代の前半。すでに25年以上が経つ。ところが、理論的な計算があまりに難しいために長い間棚ざらしの状態になっていた。最近の格子QCD計算は、ついにこの計算ができるようになったという大きなエポックとなった。


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