2020年11月29日日曜日

ハンデを武器に変える

大学で量子力学を学んだとき、それまでなじみのなかった交換関係とか、波動関数とか、球面調和関数とか、初めて見る数式を追うのに精一杯でなかなかイメージをもつことができなかった。後半に出てくる散乱問題まで来るともう飽和状態で、なんでこんな面倒なことをやらないといけないのかと思ったのを覚えている。よく考えたら素粒子の実験というのはほとんどが散乱問題なので、そこからが本番だったわけだ。

格子QCDでは、クォークの波をシミュレーションして中間子の性質を調べることができる。パイ中間子の質量を計算するというのは、大学院生が最初に練習するもっとも簡単な課題だ。シミュレーションのデータは無味乾燥な数値の羅列だが、その背後に何があるのかについて、これまであれこれと説明を試みてきた。ここからは、パイ中間子を2個置いたときの相互作用をどうやって計算するかという話をしてみたい。

量子力学で2つの粒子の間に力がはたらくときは、両方の粒子を含む波動関数を求めよという話になる。話を簡単にするために、両者が遠く離れたときにはそれぞれが独立な1つの粒子の状態になっていると思うことにしよう。両者が近づいてくると相互に散乱し、また飛び去っていってそれぞれの1粒子の状態にもどる。「状態」というのは何らかの波動関数のことで、例えば運動量が決まった値をとる1粒子の状態は決まった波数をもつ平面波に他ならない。だから、いまの問題は平面波がやってきて、また別の平面波になって遠ざかる様子を調べることだ。(2つの粒子を考えているが、当面は両者の相対的な運動を考えることにして、一つだけの変数の波動関数であらわすことにしよう。)何も起こらないときは、入ってきた平面波と出ていく平面波は同じものになる。もし相互作用があったら、波の伝わる向きが変わることもあるだろうし、もうひとつ重要なことに、波の位相がずれることもあるだろう。こういうのを位相差といって、量子力学で散乱問題を扱うときの基本的な概念になる。

波の位相がずれるとはどういうことだろうか。規則正しく同じ周期で波打ってきたものが、粒子(あるいは波)同士が近づいたとき、相互作用があるせいで周期が長くなったり短くなったりする。また離れると周期も元に戻るが、しばらくのあいだ周期が変わったおかげで、何もなく通り過ぎたときと比べて波の山と谷の位置がずれることになる。これこそが相互作用の結果で、散乱の様子を調べるということは、すなわち位相差を調べることと言ってもよい。

なるほど。では、格子QCDのシミュレーションでも同じように遠くからやってくる平面波を用意して、もう一つの粒子と相互作用し、また遠くに離れていく波を計算してみればよいのではないか。もちろんそれができればいいのだが、そうもいかない事情もある。シミュレーションで扱うことのできる格子は無限に大きいわけではないので、「遠くからやってくる平面波」というのを用意することは無理な相談だ。そもそも、平面波というのは初めから空間全体に広がっているもので、遠くも近くもない。だから、さっきまでの議論は仮想的な無限遠があると思ったときの話で、現実にはそうはいかないのだ。一つの格子のなかに2つのパイ中間子をつくって飛ばしてみると、格子のなかのあちらこちらで勝手に相互作用を始めてしまうので、散乱を扱っているのかどうかすらよくわからなくなる。 

ではどうするか。ここで一つ巧妙なテクニックを使う。格子が有限の大きさの箱であることを使うのだ。通常、有限の箱のなかにクォークを閉じこめるときには、周期的境界条件といって、箱の端っこは反対側の端っことつながっていることにする。1次元だったら円環状のひも、2次元だったらドーナツの表面みたいな感じだが、実際には4次元の箱を考えてほしい。こうして端と端がつながった箱のなかでクォークの波や中間子の波を考えるわけだが、一周したら元に戻ってこないといけないので、波の波長に制限が加わる。箱の長さの整数分の1になっていないといけないということだ。だから、実現できる1個のパイ中間子の状態は、決まったとびとびの波長をもつものだけになる。波長を決めるとその状態の運動量が決まり、運動量が決まるとその状態のもつエネルギーが決まる。つまり、箱の中ではとびとびのエネルギーをもつ状態だけが許されることになる。

2つのパイ中間子を箱の中に入れたらどうなるだろうか。それぞれが周期的境界条件にしたがうので、やはり同じように決まった運動量の状態、そして決まったエネルギーだけが許されるだろう。全体のエネルギーは、パイ中間子1個のときのちょうど2倍になるのではないか。ただし、この箱のなかの2つのパイ中間子の間には相互作用がある。シミュレーションでは、それは勝手に起こるので止めるわけにはいかない。相互作用があると、位相差が生じる。波の位相がずれるとどうなるか、箱の端まで行ったときに箱の反対側の波ときれいにつながらなくなるではないか。だからこの状態はもはや存在できない。その代わりに、もともとの波長が少しだけ違っていて、位相差があるおかげでちょうどうまく端と端がつながるような波だってあるだろう。この波は、もともとあったパイ中間子1個のエネルギーのちょうど2倍とは少しだけずれたエネルギーをもつはずだ。このエネルギーの差は相互作用の結果として生ずる。

パイ中間子2個を一つの箱の中に入れ、そのエネルギーがパイ中間子1個のエネルギーの2倍からずれてきたら、それが相互作用の存在、そして位相差を反映している。このことを使えば、エネルギーの差を読み取ることで、逆に位相差を計算できることになる。位相差が計算できたら、それはつまり粒子の散乱を計算できたことと同じだ。

有限の箱のなかで計算しないといけないという欠点を逆手にとって、有用な情報を引き出すことができる。30年ほど前に提案されたこの方法は、格子QCDシミュレーションで実際に使うにはあまりに複雑で、かつ精密な計算を必要とするので、本当に役に立つのか当初は疑問に思ったが、いまでは標準的は方法として使われている。それどころか粒子3個を一つの箱の中に入れたときにどうなるかを考えている人もいる。あまりに複雑で使えそうもない気がするが、さて。

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