そもそも本稿を始めようと思ったときの目標は、クォークの性質について大学生くらいを対象にできるだけ噛み砕いて、かつ正しく伝えるということだった。量子力学の初歩から始めて少しずつ階段を上るようにクォークへの理解を深めていくというつもりだったのだが、ずっとさぼっていたせいで、むしろ一番難しいところから始めることになってしまった。そういうわけで、以下はむしろ大学院生向けかもしれない。
アメリカの友人たちによる記念碑的な論文が出版された。https://doi.org/10.1103/PhysRevD.102.054509 K中間子の崩壊で測定されたCP対称性の破れを理論的に計算することに成功した。これを「記念碑的」と呼ぶのには理由がある。直接的CPの破れと呼ばれるこの量が、Fermilab の KTeV と CERN の NA48 実験的に確認されたのは2000年前後のことなのでもう20年前のことだが、その後この測定が素粒子標準模型の基本パラメタの決定に活かされることはなかった。理論的計算が難しすぎて基本パラメタとの関係がまったくわからず、どうにもならなかったのだ。直接的CPの破れがゼロではないということはわかったが、素粒子模型の理解という点ではほとんど役に立たない実験結果として20年が過ぎた。その状況がこの計算により初めて覆り、素粒子標準模型を検証する一群の測定の一つに数えられることになった。
では、この何が難しかったのか。理由はいくつもある。K中間子が2つのパイ中間子に崩壊する過程を理解するには、弱い相互作用(弱い力)で起こるクォークの遷移に加えて、強い相互作用(強い力)が支配する中間子のダイナミクスを理解する必要がある。しかも、強い力の場の量子論としての性質が強く現れた崩壊過程であるために、素朴なクォーク模型はもちろん、カイラル有効理論や、その他の人為的な模型による計算はことごとくうまくいかなかった。弱い力と強い力の交差点で、難しさが何重にも折り重なった量。それが、K中間子の直接的CPの破れだ。
強い力は高エネルギーの粒子散乱実験では力が弱くなって理論的に扱いやすくなる。一方、K中間子の崩壊のような低いエネルギーではファインマン・ダイヤグラムを使った摂動計算が使えなくなるために、信頼できる理論的計算の手段は限られ、格子量子色力学(格子QCD)という理論のシミュレーションが、散乱や崩壊を計算する唯一の方法となる。格子QCD計算のなかでもK中間子崩壊の計算は飛び切りの難問としてこれまで我々の前に立ちふさがってきた。どこが問題なのか、いくつかあげてみよう。
- 格子理論が苦手とするカイラル対称性が本質的に重要な量である。カイラル対称性を持たない理論を使うと、弱い相互作用から出てくる演算子が他の演算子と量子効果によって混ざってしまい、欲しい量だけを取り出すことが困難になる。
- 終状態が2つのパイ中間子からなる状態である。格子QCD計算で、2つのパイ中間子を用意すること自体はできる。ところが、2つのパイ中間子の相対的運動量を決まったものに固定することが難しい。これは、本質的には格子計算はユークリッド化した空間上で行わざるを得ないことに起因する。格子上ではエネルギー保存則が「成り立たない」。どうやって必要なものだけを取り出すのか。
- もう一つ、格子理論が(虚時間をもつ)ユークリッド空間での計算であることからくる問題として、散乱の振幅を直接は計算できないということがある。ユークリッド空間ではいくら計算しても実数しか出てこない。実空間での散乱振幅(散乱の位相差といってもいい)をどうやって読み取るのか。
- 格子QCD計算がもっとも苦手とするのは、クォークと反クォークが対消滅できるような状態である。2つのパイ中間子からなる状態は、すべてのクォークと反クォークが対消滅して消えてしまうような成分が含まれており、実はこれが本質的な役割を果たす。格子QCDのモンテカルロ・シミュレーションでは、こういう状態の統計誤差が大きくなってしまって信号が見えなくなる。
これらの問題を克服した結果が上記の論文に結実している。「記念碑的」な研究と紹介したのにはそういう意味もある。上記の論文の著者の一人でもっともシニアな研究者の Soni 博士は、こういう計算を目指して30年以上も前から研究に取り組んできた。Christ 博士は、格子QCD計算のために計算機開発にまで取り組んできた先駆け的存在だ。非常に強力なメンバーとともに情熱を失うことなく長年にわたって研究を続けてきた結果がここにある。そういう意味でも感動するような成果だと思う。
次回から数回にわたって、これがどういう問題なのか、どのように解決されたのかを紹介してみたい。残念ながらこれらは大学生向けというより大学院生向けになってしまうかもしれない。
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