2020年9月24日木曜日

複素数なのだ

なぜ量子力学の波動関数は複素数なんだろうか。数学の群論によれば、数みたいに演算が定義されるものは無数に作れるのに、そのなかでなぜ複素数なんだろう。もしかしてもっと難しい理論を学べばどこかに答えがあるんだろうか。

CP対称性とは、事実上、時間反転対称性のことだ。量子力学で時間を反転したときに法則(シュレーディンガー方程式)が変わらないためにはどうなっていればいいか。本稿では数式を使わないことにしているので説明が難しいのだが、シュレーディンガー方程式では、時間 t の符号を変えると同時に式全体の複素共役を取ると元に戻る。つまり法則が変わらないことになる。ただし、ハミルトニアンの複素共役が元と同じなら。なんだか難しい言い方になってしまった。別の言い方を試みてみよう。量子力学では、時間が経過したときに波動関数の位相が回転する。回転の速さはエネルギーに比例する。時間を逆転させると、位相の回転も逆向きになる。複素数の位相なんだから、複素共役を取ると逆向きの回転は順向きに戻る。こうしてめでたく元に戻った。このための条件は、エネルギーが実数であること。虚数を含むと時間を進めたときに単に回転するのではなく増大するか減少してしまう。CP対称性のための条件は、あらゆる可能なエネルギーの状態が、実数のエネルギーをもつこと、と言い換えてもよい。

CP対称性の破れは、自然界の法則をつかさどるハミルトニアンのなかに複素数が含まれているかどうかを見れば判別できる。通常はそんなところに複素数は出てこない。映画を逆向きに回すと奇妙だが、それは物理法則に反するからではなく、単に見慣れないできごとだからだ。しかし、実際にCP対称性を破る素粒子現象が見つかってしまった。どう考えればいいのだろうか。

もともと素粒子の理論は量子力学でできているので、理論のいろんなところに複素数が出てきていけないわけではない。問題は、ほとんどの場合には気づかないほどに小さい効果なのに、とにかく有限で存在しないといけないということだ。理論に入っているパラメタを小さい値に調整すればいいのかもしれないが、それでは不自然な感じがする。実験に合うように数字を合わせるだけでは何かを理解した気はしない。

小林先生と益川先生が気づいたのは、ワインバーグ・サラム模型を書いてみると、もともと複素数のパラメタがいくつも入っているのだが、それらはすべて理論の中に入っている力学的自由度(場の値のこと)を再定義すれば吸収できてしまうものばかりで、おかげであらゆる実験で測定しても見えないということだった。有名な逸話だが、両先生はこのやり方ではCP対称性の破れは起こらないことを証明する論文を書こうとされたという。ところがあるとき、別のひらめきがあった。クォークの種類を増やせばよい。

これまで出てきたクォークはアップ、ダウン、ストレンジに加えて、GIM機構のために必要なチャーム・クォークだった。これらはダウンとストレンジ、アップとチャームという2種類にグループ化され、ダウンとストレンジは少しまざった上でアップあるいはチャームとWボソンを通じて結合する。では、ここにもう一つずつ別のクォークを加えてみてはどうだろう。ダウンとストレンジに加えてボトム・クォークを含めて一つのグループにする。その中で3種類が混ざった組み合わせを3つ作り、それぞれがアップ、チャーム・クォークと、あと一つ、トップ・クォークに結合するようにするわけだ。

3種類のクォークの混ぜ合わせ方は、単に相対的な比だけではなく、複素数にしてもよい。2種類だけだったときは、せっかく加えた虚数部は、クォーク場の再定義で消えてしまったのだった。ところが3種類のときには、再定義だけでは消えない虚数部が残ることがわかる。非常に雑な数の勘定だけをしてみると、2種類のクォークを混ぜるときに複素数を入れるやり方は3つあるが、場の再定義はダウン、ストレンジとアップ、チャームで別々にできるので、4つもあって消せてしまう一方、3種類のときの複素数の入れ方は6通りあって、6つのクォーク 場で再定義しようとしても1つ残ってしまう。(6つのクォーク場の再定義のうち、1つは全体の位相回転になっていて、消すのに使えないことに注意。ちゃんと数えたい人は教科書を読んでユニタリー群のパラメタ数を調べてみてほしい。)こうして残った1つの虚数部が、CP対称性の破れを起こす種になるわけだ。2x2、3x3 を拡張して NxN という大きな行列を作ってみると、混ぜ方は N の2乗で増えるのに対して、再定義できる場の数は 2N でしか増えないので、数を増やすと消えない虚数が増えてくるわけだ。

長くなってしまった。こうして出てきたたった一つの複素位相。これがどうやってK中間子のCP対称性の破れに結びつくのかは、また次回にしよう。

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